例え この躰は覚えていなくとも
この魂は覚えている


例え この記憶は覚えていなくとも
この心は覚えている


例え 如何様に変わり果てていようとも

俺は 君を求め 君を呼ぶ




















 ――――― 手繰り 記憶の章 ―――――




















「麗らかな春の陽気」なんて言葉を時々耳にする。

のどかで朗らかな春の天候の事をさすが、今の天候を言い表すならこの言葉の他にない。
広く晴れ渡る蒼天と惜しみなく燦々と降り注ぐ太陽の暖かさは、水無月の頃だというのに雨の「あ」の字も見せず
たゆたうように「麗らかな春の陽気」を保ち続けている。
身を芯まで暖める日の和やかさに風の柔らかな心地よさ、静かなこの場所。
これを前にしては、全てを放り出してごろりと寝転がりたい気分にさせてられてしまう。

さりとて、一応仕事を仰せつかっている身にとっては、これほど拷問器具に相応するものもまた他にない。
眠気を誘われるこの身に鞭打ちながら泣く泣く作業に徹するものほど、辛く苛立つものはないと思わずにはいられない。

そしてこの男、正確には青年も、今正にその状態に追いやられていた。



ザッザッザッ ――

固い石畳を少し刺々しさを失った竹箒で掃いていく。
その度に砂埃がもうもうと舞った。

年のほどは十代後半の、程よくすらっとした細身の長身を包むは白衣(びゃくえ)と墨染めの袴。
大人びた面立ちの中には少々ふて腐れたような仏頂面、でもそれを抜かせば端整でありながらきりりと芯の強そうな顔。
首筋ほどに伸びた、手入れのあまりされていない少しぼさぼさの黒髪。
恐らく普通の女子中高生などが見たら、それは「かっこいい男の子」の部類に入る。
掃く度に箒の柄に絡む衣と袴の裾をうざったく感じながらも彼は律儀に手を動かし、境内のゴミを掃き続けていた。
と・・・。

「硅・・・」
「はい・・・?」

不意に呼ばれたので反射的に、歳相応な筋の通った声で返事をしながら、青年 ― 硅(けい)は手を止めて振り向いた。
目をやれば、しわのある禿頭(とくとう)と、墨衣に黄土色の袈裟を纏ったお坊が本堂の廊下に立っている。
元来の優しい顔にほぐれた微笑を浮べながら、ちょいちょいと自分を手招きしていた。
箒を持ちながら、硅は招かれるまま見慣れた和尚の方に寄っていった。  

「なんですか。和尚様」
「仕事中にすまんの。少々頼まれてくれんか?」
「はぁ・・・どのような用で?」

嫌な予感がする、と心の隅で思いながら硅は間の抜けた返事を返した。
和尚は更ににっこり笑うと、徐(おもむろ)に衣の裾から小さな紙切れを差し出した。

「明日ここで大祓があってな。人手が足りんので手伝いが欲しいらしいのじゃ」

そういいながら和尚が差し出したのは一枚の小さな紙切れ。
硅は不安な面持ちのまま、それでも一応その紙切れを受け取ってざっと目を通した。
とはいえ『大祓』という場にそぐわぬ単語が出ているあたり、嫌な予感は既に的を射抜いていたのだが。

『大祓(おおはらえ)』とは毎年六月と十二月に、諸人の罪や穢れを払い清める為の神事だ。
昔は天皇の即位の祭りや、疫病流行などの時にも行われたと言われている。
まあ要するに人々の幸福や無病息災を願う大掛かりなお祓いなのである。

だがちょっと待ってほしい。
普通「神社」である場所に「お坊」が出てくるはずは無い。
神社といえば「神主」、お坊が出てくる場所といったら俗に言う寺院、「お寺」が普通である。
無論ここをどこかと問われれば、お坊がいるのだから当然後者にあたる。
で、何が問題かというと・・・


「あの、和尚・・・。その、大祓は・・・神社の仕事・・・ですよね・・・?」


同じ祓い事でも『大祓』は神を呼ぶ神社の仕事であり、死者の寝床である寺院では管轄外も甚だしい。
なのにこの和尚ときたら何を血迷ったか、寺育ちの自分に神社の手伝いに行かせようとしているのだ。

遂にボケたのか、という疑いの意も込めて硅はおずおずと訊ねた。
しかし当の和尚はまだまだボケてませんとでも言うように、にっこり朗らかな笑顔を浮かべた。

「ここの神主とは古い付き合いで、色々と世話にもなっとってな。
 そやつからどうしても、と拝み倒されてしまったのじゃよ」

(・・・またか・・・)

内心でも、思わず呟かずにはいられなかった。

人の良い老和尚は例え知人の頼みでなかろうが、どれ程の無理難題であろうが、後先考えずにすぐ承諾してしまう。
全ては彼の掲げる「御仏の慈悲心」という座右の銘がそれをさせているのだが。
硅がそんな和尚のボランティア精神のとばっちりを食らって借り出されるのは、決して稀ではないのだった。

「行ってはくれんかの?」

相変わらずの優しい、一種凶器にも等しい笑みで問いただす和尚。
硅はその笑みに暫し沈黙したが、すぐに小さくため息を吐くと

「分かりました・・・行きます」

あっさり、というか渋々折れた。
仏頂面で心ではぶつくさ言いつつ受けてしまう硅も、実は自他認めるかなりのお人よしだ。
最近では和尚のが伝染したのだと諦めてしまってるが。

すまんな、といつもの謝罪と礼を込めた和尚の言葉をいえ、といつも通り軽く応える。
内心また一つ溜息を吐きつつ、では掃除に戻ります、と頭を下げて踵を返した。

と、その刹那 ――



ふわりと、影が舞った。



常人に見えていたならば、その光景を幻か見間違えかと信じて疑わなかったかもしれない。

風で舞い上がった硅の深い黒髪と白衣の法衣。
その二つに日に透けた銀の長髪と緋色の衣がうっすらと重なった
そんな摩訶不思議な、されど確かに目の前で起こったその光景を ――

だが次の瞬間には、いつもの硅の背がこちらを向いて掃除場所に戻っていく姿がそこにあった。

(・・・また「かれ・・」か・・・)

和尚はその後姿を黙って見送りながら、別段驚く訳でもなく心の中でポツリと漏らした。


初めて見たのは忘れもしない、幼い硅がこの寺にやって来た時だった。
呼び様に振り返ったその幼子と目が合った。
その目・・・に不覚にも、思わず息を呑んだ。

目も眩むような、実に美しい黄金(こがね)と ―

一瞬にして黒い瞳に戻ったが、あの瞳は今でも鮮明に覚えている。
宝石のような美しい金の瞳。
けれどそこから感じられたのは、空恐ろしいほどまでの猛々しく強い「何か・・」の決意。

暫くしてからそれが「何か・・」から「かれ・・」に変わったのは、その瞳以外の姿を幾度と垣間見てきたためだった。
 
流れる長い銀髪は白雪か、絹に見紛うた。
たなびく緋衣は地獄の業火のよう。
突き出た耳は犬猫のような獣耳。
そしてあの黄金の瞳―――

青年が恐れると思い本人には伝えていないが、人とは思えぬ「かれ・・」は何故青年に憑いているのか。
否、あれはもはや憑いているというのでない、何か深い縁(えにし)によって繋がっている。
仏に仕えるこの身故にそう思うのかもしれないが・・・そんな気がしてならない。

そんな恐らくは自分にしか見えない「かれ・・」が最近になって、心なしか見える回数が増している。
それは何かの訴えの表れなのか、それとも――――

(何か起り事の前触れなのか・・・)

和尚は小さく息を吐くと、ゆっくりと本堂の中へ消えていった。











大分日が落ち始めたその日。

水道から出る水と共に、硅は今日一日の手の汚れと顔の汗を洗い落とした。
ふうと息つくと、引っ掛けてあるタオルで水気を拭い取り、そのまま洗面台を離れて洗面所を出ようとした。
その時、ふと横の壁に張ってある鏡が目に入る。

口元をタオルで押さえている自分の顔
― 鏡の中のその瞳が一瞬、金色に変わった。

しかし次に瞬きして映った己の瞳は闇のように黒く、幾ら瞬いてもうんともすんともならない。
同時に一気に苛立りが込み上げた。
舌打ちすると足早にそこを離れ、少し遠い自室に入って思いっきり襖を閉めた。
タオルを適当に床へ放って布団へ仰向けに倒れこむと、白い天井を睨み付けた。

(ちくしょう・・・また出やがった・・・)

ギリッと下唇を噛み締める。

別にさっき見たのが初めてなわけじゃない。
物心付いた時から「こいつ・・・」は見えていた。


極々普通の、ありふれた家庭で生まれた自分。
幸せ溢れる家庭の中で、惜しみない愛情を受けた。
が、ただひとつ、特別な事があった。
普通とは違う、通常ではありえないものを己だけが見れること。
幽霊とかそんな他人ごとではない。

それは鏡や水溜りに時折映る、別の自分の姿。

長く伸びた白銀の髪
犬猫みたいな獣の耳
妙に形をした赤い着物
そしてさっきの金色の目

いつも一瞬現れてはすぐに消えてしまうその姿は、自分にしか見えていないらしく、
幼い頃は「変なのが見える」と訴える度に周囲は随分気味悪がっていたものだ。

両親は何処かおかしいのか、はたまた何か憑いてるのかと悩み、遠い親戚にもあたるこの寺に己を託した。
とは言え、行き成り両親と離れ知らぬ場所に放り込まれた挙句、その原因が「こいつ・・・」では幼心はズタズタだ。
唯でさえ出すのが下手だった感情は益々でなくなり、一時は自閉症寸前まで追いやられていた事もある。
それが今では常人並みの人付き合いもこなせるようになっているのは、他ならぬ意外と根気強い和尚の賜物だが。

そんな和尚にさえ、今なお「こいつ・・・」が見えることだけは話していない。 
幾ら御仏に仕えているとはいえ和尚に霊感があるとは思えないし、無駄な心配をかけたくなかった。
それに和尚までが「奇怪な物を見る目」を自分に向けたら、それこそ一生立ち直れない。

だがそんな感情とは裏腹に、最近目に見えて現れる回数が増えている。
数ヶ月前までは時折見えるか見えないか程度だったはずが、酷い日には一日に数回。
しかも以前よりはっきり見えるようになってきている気がする。

(くそっ!一体なんだってんだっ!)

悪霊などの類なのか、はたまた自分の頭がイカレてしまっているのか・・・。
何にしても硅の苛立ちは日に増して募る一方であった。
















翌日の午後 ――

この日の昼下がりの太陽は初夏を思わすように煌々(こうこう)とアスファルトを照らしていた。
むしろ「暖かい」を超え「暑い」という方が正しいかもしれない。

そんな日差しの中、昨日の白衣と黒染めの袴とは打って変わって黒いレイヤードTシャツとジーパンにスニーカー。
更には大きめのボストンバックを肩に引っ掛けた硅は、見知らぬ街中を歩いていた。

「泊りならもっと早く言ってくれよな・・・」

心優しいがどこか抜けてもいる和尚を思い浮かべそうぼやきつつ、おもむろに手にしていた小さな紙に目を落とす。
それは昨日和尚から渡されたあの紙切れで、神社の名前と連絡先、簡単な地図が書かれていた。
地図によればこの辺のはずだと、紙と周囲を交互に見て神社らしき建物を探し歩く。

それと同時に、ふと妙な郷愁にかられた。

己の住む場所とは相当離れており行動範囲も真反対に位置するので、この辺りに足を伸ばすのは確かに初めてのはず。
なのにさっきから何故か田舎を歩くような、どこか懐かしい感覚がするのだ。
写真か何かで似たような風景でも見たのだろうか?
いやもっと違うところでそれを感じる。

何かとまでは分からないが ― 知っている・・・・・・・・?

(・・・なんだそりゃ・・・)

無意識にそう想った後、はたと矛盾に気がついた。
自分でも訳の分からない考えにむしゃくしゃして頭を掻いて振り払った。




そのまま暫く黙々と探し歩くと目的の場所に到着した。

「ここだ・・・」

見上げた先の、どんと構えた趣のある褪せた紅い鳥居に書かれたそれを見て、硅がポツリと漏らした。
古ぼけた木の板に、達筆でありながら長年の雨風で滲んだ神名(じんみょう)

『日暮神社』  


ト・・・クン・・・――


その名前を心の中で呟いた瞬間、心の底から小さな鼓動のようなものが聞こえた気がした。

(・・・なんだ・・・)

不思議な感覚 ― 緊張感や高揚感に似ている気もするが、それともまた微妙に違う感じの胸の高鳴り。
けれど決して居心地悪くはない。

(ここに・・・何かあるのか?)

鼓動への微かな不安と、神社への冒険心にも似た期待が一気に強まって、駆け足で階段を上っていった。





高台に作られたが為に自分の住む寺の二倍はあろう段数の階段を駆け上るのは、いくら硅が若くとも容易くはない。
頂上に着く頃は多少息も荒かった。
が、そこに広がる光景は硅の疲れを一瞬忘れさせることになった。

砂利で敷き詰められた境内
階段から本殿まで伸びた石畳
飾られた石の灯籠(とうろう)
社務所や古ぼけた祠
一際目を引く立派な大樹 

自分のところにはない、正に「神の社」に相応しいその佇まいと空気。
洗礼されつつも壮大な雰囲気に思わず息を呑んだ。
それとほぼ同時に境内の石畳を掃く女性の姿が目に映った。
女性も己の気配に気がついてか、ゆっくり硅に振り向いた。

年は四十代、少し癖のあるボブショートに落ち着いた服装で、腰エプロンにサンダルを突っ掛けている。
それは別段珍しくもない一家の主婦のような、おっとりしていそうな人だった。

「若いのにこんな時期に参拝なんて珍しいわね?」
「えっ!?」

ばっちりと目が合ったかと思うと、にっこり微笑んでその女性が突然 ― 予想通りおっとりした口調で問いてきた。

「あっ・・・いや、ちっ、違いますっ」

口調からして神社の人であるのは間違いないが、突然でしかもこの神社の佇まいに圧倒されていた最中だったので、
思わずどもり口調な上にぶんぶん頭を振ってしまった。
それが結果的に女性の首を傾げてさせてしまった。

「りょ、涼爽寺(りょうそうじ)から参りました時峰(ときみね)と申します。
 師僧・爽明(そうめい)より大祓の補佐を承り、参った次第です」

悲しくも言いなれてしまったお堅い台詞を吐きながら頭を下げると、女性からあら、と声が零れた。

「じゃあ、貴方が硅くん?」
「え・・・?」

名乗っていない下の名前で呼ばれたことに驚き頭を上げると、女性はおじいちゃんからお話は聞いてるのよ、と朗らかに答えてくれた。
とりあえず己の事が伝わってほっとした・・・のは束の間。
予告無くして前方の社務所のドアがキイと音をたてて開いた。
びくっと反射的に肩を震わせつつそちらを見ると、のそのそと中から人が出てきた。

和尚と同い年ぐらい年配者で白衣に灰色の袴を着ている。
まるで統一したかのような白の髪と眉と申し訳程度の顎髭は和尚より年寄りくさい。
ふうと一息ついた後、こちらの存在に気付いておやっと目を見開き、のろのろと近付いてきた。

「ママさん、お客さんかい?」

風体通りしゃがれた声でその老人が問うと硅の代わりに違いますよ、とママさんと呼ばれた隣の女性が答えた。
どうやら話し振りからこの老人が神主さんであり、先のおじいちゃんであろう。

「ほら、昨日お願いした涼爽寺の・・・」
「時峰と申します」
「おお、君が硅くんか」

ママさんに代わって硅が言葉を継ぐと、途端におじいちゃんは顔を綻ばせた。

「爽明からよく話は聞いとるよ。わざわざすまないね」
「いえ・・・こちらこそ二日間お世話になります。出来るだけの事はお手伝い致しますので」
「うむ、寺とは勝手が違ってやりにくいとは思うが気楽にやりなさい」

おじいさんはまあ積もる話はまた夕飯時にな、と言い残すと本殿の方へ老人らしくのったりのったり歩いていった。
丸い背中を見送りながら、あの性格なら和尚と気が合うのもなんだか頷けるものがある。
和尚と神主さんが二人並んでのんびりと茶を啜る姿を想像して小さく笑いを零した。
が、その想像も「母さーん」と言う呼び声に中断させられ、更に再びびくつくはめになったのだが。
どうもこの日暮神社の面々は心臓に宜しくないようだ。

今度は誰なんだと視線を送ると、おじいさんと入れ違うような形で声の主と思しき影がこちらに向かって駆けてくる。
影の正体は前髪を分けた少年で、年は十二、三歳くらいだろうか。
あまり袖を通していないのであろう真新しい学ランを着ている事から、今年中学に上がったのがよく分かった。

「母さん、いつまで掃除してんのさ。もう夕飯時だよ」
「あら、もうそんな時間?」

少年は傍にいた硅には目もくれず、真っ先に母に腹減りの不満を訴えた。
母も息子の訴えを聞いて大分時間が過ぎていた事に気がついたらしい。
硅もそう言われてふっと空を見る。

到着した時はまだ日はそれなりに高かったとは言え春はまだ過ぎて間もない。
つい先ほどまで照っていた太陽が今は街の地平線で橙に染まり揺れている。
空の色も黄から白、藍色へと見事なグラデーションに染まっていた。

「そういえばこの人、お客さん?」

はたと、少年は今更になって硅に気がついたらしい。
まだあどけないきょとんとした顔で三度目のお客さん疑惑をママさんに問う。

「涼爽寺の時峰君よ。大祓のお手伝いに来てくれたの」
「よろしく」

さすがに三度目ともなると、今度はママさんが紹介してくれた。
そう日に何度も自己紹介などしたくはないので内心硅もほっとする。
有り難味を感じながら不器用に小さく笑って挨拶した。
だが途端、少年はあれっという表情を浮かべ、折角の母の説明も軽く聞き流してまじまじと硅を見つめてきた。
自己紹介を返すでもなく宜しくと言うでもなく、ただじっーと、まるで観察するかのような目で。

「・・・俺の顔になんか付いてる?」

知らない人に見つめられるなんて行為は正直誰でもあまり宜しく感じないだろう。
硅もまた然りで堪りかねて訝しげに訪ねた。
すると少年は呆けたように

「・・・犬の兄ちゃん・・・?」

一言、呟いた。

「・・・はっ?」
「・・・あっ!えっと、ううん、何でもないっ。気にしないで!」

呟いた後、少年はあからさまにしまったという顔をした。
母と自分によく分からない言葉を取り繕ろうと慌しく家の方に駆けて行ってしまった。

「・・・犬の・・・兄ちゃん・・・?」 

一方硅は、思ってたのとあまりに違う返答と反応に肩透かしを食らってその背をただ呆然と見送った。
拍子向けした謎の言葉ですっかり占領され、くるくるとその言葉が廻る。
兄ちゃんはともかく・・・犬・・・?
柴犬やらチワワやらの犬が廻る硅にママさんは微笑みながら補足してくれた。

それは、少年が気に入ってたお兄さんのことだ、と。
そして、言われてみれば確かに貴方は彼に似てるかもしれない、とも。

その言葉の端々と笑顔にはどこか困ったような、されど影も見えた気がした。
硅はそれ以上の詮索はせず、そうなんですか、とだけ言った。
人には聞いて欲しくないことはあるものだし、別に『犬の兄ちゃん』が誰だろうと己には関係はないのだから。

「あっ、やだ。そういえば私達の自己紹介がまだだったわね」

ごめんなさいね、と言いながらまた笑うママさんの顔に先ほどの影は既になかった。
そしてはたと自分も、散々紹介しておいてこの家族について何も聞かされていない事に気がついた。

家族構成は四人(と一匹)らしい。
予想通り神主である先のおじいさんとママさん、さっきのが今春中学に上がった息子の草太、飼い猫のブヨ
そしてもう一人――

「あと、まだ帰って来てないけど、高校二年生の娘がいるのよ」

少し誇らしげにママさんは言った。
ちなみに寺の跡継ぎとして中学からの進学はしていないが、学校に通っていれば彼も今年で高二になる。

もうそろそろ帰ってくると思うんだけど・・・ママさんが言った丁度その時だった。


タッタッタッタッタッ・・・


それは己も上ってきた後ろの階段から、誰かが駆け上ってくる音。
慣れた調子で足取りも軽く、軽快にこちらに向かってきている。


ドクン・・・ッ・・・ ――


それと同時にまた鼓動が聞こえた。



ドクン・・ッ・・・ドクン・ッ・・・ドクンッ・・・ドクンッ ――



今度は明らかに緊張や高揚感といった類ではない、いや、そんな生易しいもんじゃない。
さっきよりも大きく、それも今度は何度も打つので一瞬はいきなり病気にでもなったのかと思ったが勿論そんなものでもない。
足音が近づく事に一回一回、心臓の奥から沸き立つように響く。
その度に打つ力は強くなり、音もこれでもかと耳を突くので周りに聞こえるのでないかと思うほどだ。
遠のきそうな意識を総動員させながら、どこか確信があった。

― それはまるで何かが生まれ出ようとしてる感覚 ―

押さえようとしても止まらない。
弾けかけの風船ようにちょっと刺激を与えればすぐにでも爆発する。



それは硅が振り返り、その人物を眼にした時に




「あっママ。ただいまっ」




同時に足音の主がその階段を上りきり、姿を現し声を発した時に



驚くほど、実にあっけなく爆発した。

少なくとも硅本人はそう思った。







鈴のような可愛らしい少女の声。
灰色の、どこかの高校の制服にルーズソックスと茶色いローファーを纏う華奢な躰。
風に靡く美しく長い漆黒の髪。
合わせた様な黒曜石のような瞳はいつも一途で、優しさと希望に満ちていて。

そしてまだ僅かに幼さの残した顔に咲いた、その笑顔―












―― ドクンッ ――














――              ――





いつも彼女に呼ばれていた、名

忘れた、名







それに応えるように呼んでいた、名

忘れていた、名





























――    か ご め    ――
























遠く遠くでざわめき続けていた その魂と想いが

大きな音を立てて 弾けた ――――


















ずっとずっと探していた

その名 その姿 その声 その笑顔

遥かなる輪廻を超えてでも
愛しい君に逢いたかった






















切なる願いと想いを絡めて手繰り寄せられたのは 新たなる出会い
さあ 始めましょうか
魂と想いが手繰り寄せた もう一つの物語