叩かれ続けるのは 今にも破られそうな脆い扉
開かないのは 自分が自分でなくなりそうで怖いから
でも
あの涙が 笑顔に変わるなら
そこまで 狂おしい気持ちを伝えたいのなら
この扉 開け放とう
――――― 手繰り 再会の章 ―――――
いつもは人も少なく静けさを保つはずであろうこの神社は今現在、考えられない量の人で実に活気付いている。
老いた神主と次期神主の少年が払いをやっている本殿までは、厄を祓って貰おうとする行列が途絶えない。
その補佐をしつつお神酒や塩配に右往左往する母子巫女の元には―これまた色々な意味で人が集まっている。
そして一人社務所で仕事をこなす彼の青年も、例外ではなく大童であった。
硅が任された仕事は社務所で守り袋や札など、よくあるご利益物の販売である。
つい去年までは草太がこの仕事を請け負っていたらしいのだが、中学に上がった今年からは草太曰く
将来の為に徐々に神事を覚えていかなければならない、とのこと。
ママさんやかごめも巫女さんとして神主の補佐等をしなくてはならないので、こちらにまで手が回らない。
そこでじいちゃんが和尚から聞いていた若さあり・体力あり・顔よしの硅に見事白羽の矢が立った、という訳であった。
朝からは老若男女問わず客が押し迫ってきていたが、夕方になると客足が少しずつ収まりを見せ始める。
硅は頃合を見計らって一旦社務所の奥に入った。
ママさんが用意してくれたおにぎりとお茶で一服しようとした丁度その時、かごめが社務所を訪れた。
破魔矢を拝借していくだけのつもりだったらしいのだが折角だからと誘い、二人でご飯にありつくことになった。
時折おにぎりを口に運びながら、改めて互いの事について語った。
とはいっても疲れはあったし、神社と寺と言う普通の人とは少し違う環境にある二人なので、話す内容は
「じいちゃんは何かと物事を語りたがる」とか「こういう神事はきつい」とか、互いの家のことについてばかりだが。
けどかごめはこちらが何か話すたびに驚いたり共感したり。
逆に自身が話す時もよく笑い、よく怒り・・・と、実にころころと表情が変わる。
ただ、表情の所々で影が見えた気がした。
それは今朝見た、あの憂いを帯びた悲しそうな影だ。
彼女があの時見せた、想像も出来なかった顔には本当に驚いた。
掻き消えてしまうのではと思うほど、その姿は小さく見えて。
泣くのではないかと思うほど、その顔は痛そうで悲しそうで。
あの表情は、鮮明過ぎるほど頭に張り付いている。
何が彼女をそんな顔にさせたのかは分かるはずも無いし、そこまで込み入った話を聞くほど自分とて無粋ではない。
ただ出来ることならそんな悲しい顔はして欲しくない、似合わない、と思っただけ。
似合うのは・・・そう、例えば・・・
― 屈託の無い、花のような笑顔
・・・それは果たして本当に己が思ったことかどうかは心に仕舞いこんで、目まぐるしい二日間を過ごした。
最終日は片付け云々をしていたら終わった時はもう深夜に近かった。
ママさんは夜遅い事と疲労を痛く心配してくれ、予定外の一泊を硅は頂戴することになった ―
朧に霞むは更待ちの月―
春宵染める濡羽の黒―
耳が痛くなるほどの静けさを持った境内。
唯一聞こえるとするなら肌寒い春の夜風の音と、辺りの葉が擦れ合う音。
この身で実感していなければ昼間の活気を夢と疑いそうである。
「夜も更けてからようやく出る」と言う彼の月は、名の通り漸く出られたことを喜ぶかのように月明かりを送っている。
とはいっても神社を囲む木々や堂、加えて春特有の雲によって朧月と化しているせいだろうか。
壊れて点かない外灯も手伝って、辺りは余計にうっそうとし漆黒と見紛うてもおかしくない。
巨木に遮られそうになりながらそれでも朧月はうっすらと優しく、濡れた黒髪を纏う少女を照らしていた。
その樹を見つめ想い描くは たった一人の大切な人
もう 心の中でしか 逢う事は叶わない人だけど
声を聞いた事も 姿を見た事も 手に触れた事も
今や何もかも幻と疑ってしまいそうなほど
夢のような出会いだっただけど
夢では無い 幻では無い
その声を聞いた事も
その姿を見た事も
その手に触れた事も
隣にいてくれた その記憶も
恋をした その気持ちも
何もかも 彼がいて 彼がくれた 大切なもの
今でも色あせる事無くはっきり思い出せる 大切な人のこと
雪を細くしたみたいに さらさらとした長い銀髪
三角の犬耳がちょこんと出て 時折ぴくぴくと可愛く動く
どんな宝石も叶わないほど 綺麗に透き通った瞳は金色(こんじき)
業火の如く 鮮やかな緋色の着物を翻し
偉大な父から受け継いだ 大切な妖刀を帯びて
強靭な裸の足で 軽やかに大地を駆ける
鋭い爪は どんな敵も薙ぎ払う
子供っぽい、仏頂面の顔
乱暴で、怒りっぽくて、ヤキモチ焼き
いつも勝手に一人走りして 勘違いするのも常で
だけど本当は呆れるほどお人よしで、寂しがり屋で
その手も心も 暖かくて優しい人
思い出せばキリが無いくらい 一つ一つを鮮明に覚えてる
その仕草やその表情・・・たくさんたくさん覚えてる
どれ程の時間が経とうとも 未だに忘れる事は無い
それどころか心の奥底では密かに期待している いつか彼が現れるのではないかと
頭では、彼がもう現れない事も二度と会えない事も分かっている
それでも この木だけはいつまでも繋がっている気がしたのは
彼と逢わせてくれたから 想いを繋いでくれたから
気がつくと 彼に語り掛けているように この樹に話しかけてしまう
(これでも結構・・・諦めかけてたんだけど・・・)
最近やっと、この樹の前に立たなくても大丈夫になってきたのに
やっと、踏ん切りがつけられると思っていたのに
閉じ込めるのはあんなに大変だったのに、解き放つのは何故こんなにも簡単なのだろう
くすりと自嘲した。
きっかけは、先日来た青年 ――
階段を駆け上って境内に着いた時、ママと知らない男の人が居た。
その人を見た一瞬、思わず叫びそうになった。
確かに眼が合った―― 幾度と見てきた、あの美しい金色の瞳
しかし、瞬いた次の瞬間に合ったのは、吸い込まれそうな黒い瞳。
違う人と認識した途端、込み上げた想いも急速に引いた。
それでも面立ちがどこか似ていた、月の出ぬ夜に妖の血を失い人になる彼に。
もちろん、よくよくみれば全然違う。
レイヤードにジーパンの現代の服に黒い短髪。
顔つきも雰囲気も年のわりに少し大人びていて、落ち着きがある。
話し方も敬語だし、仕草も何もかも当然別人。
どちらかといえば昔思い描いていた理想の男性に近い。
そんな彼だからか、はたまた同い年で環境が似ているせいか、社務所で話した時もとても楽しい人だと思った。
しかし彼と出会って、同時に二つの感情が生まれてしまった。
彼だったらよかったのに、という落胆感―
彼と青年を重ねてしまった、という罪悪感―
ふっと過ぎるその想いに幾度も叱咤した。
散々、前世だ似ているだと言われ比較されて気分を悪くしたのは誰だ。
あれ程、彼の巫女と重ねられるのを嫌がったのは誰だ。
なのに自らもそれをしてしまっていることに激しい自己嫌悪を抱いた。
例え他の誰が、あの青年が知らなくても自分が嫌で仕方なかった。
「ごめん・・・ごめんね・・・」
冷えた幹に手と額を当てながら、消え入りそうな声で呟く。
あの朝、青年に謝ったのも、今、樹に向かって謝っているのも、全てその所為。
自分勝手な考えに謝らずにはいられなかった。
掠れた声と共につっと綺麗な雫がかごめの頬を伝う。
そんな光景を、少し離れた物陰から見てしまった硅がいた。
遅くまで客間で明日の準備をしていたのだが、ふっと窓の外に目を向けると家から誰か出て行く姿が見えた。
自室からの光が僅かに照らしたのは、夜風が舞い上げた黒い長髪と水玉模様のパジャマ。
あんな薄暗い中でそれがかごめだと一瞬にして分かったのが、正直信じられない。
そして気がついた時には、折角詰め込んだ自分の上着を適当に引っ掴んで兎に角夢中で後を追っていた。
間もなくして追いついたのだが、すぐさま口をつぐんで草陰に飛び込んでしまった。
例の大樹の前にいたかごめの顔はあの朝の時よりも更に悲愁な顔だったから。
あと一吹き風で攫われて消え入ってしまいそうと思わせるほどに。
横顔はあまりに痛そうで、あまりに辛そうだった。
程なくして少女の涙の混じったか細い声が聞こえた。
そろりと物陰から顔を覗かせ、頬を伝ったそれが涙と分かったその瞬間 ――
――ドックンッ!!――
「っっ!!!!」
今までで最大の脈動。
その大きさに思わずぐっと服と胸を握り締めた。
――ドックンッ!!――
――ドックンッ!!――
――ドックンッ!!――
――ドックンッ!!――
「ぅ”・・・・っ・・・・ぁ”っ・・・・」
襲われたことの無い苦しさだったが、かごめに気付かれないように必死に声を押し殺す。
だが抑えても鼓動は止むどころか徐々に強くなり、感覚もどんどんと短くなる。
時限爆弾でも抱え込んでいる気分になる、遂には息苦しさに耐え切れなくなって膝をついて低く呻いた。
息も荒く、汗がこめかみに浮かんでは整った顎のラインを伝っていくを幾度か繰り返す。
心臓が爆発する、と思った。
しかし何故か同時に、もういい、とも想った。
考えてみれば、元々己に「こいつ」を止める力なんか無いのは分かっていたのかもしれないからか
そこまで逢いたいなら 逢ってこい
そこまで伝えたいなら 伝えてこい
もう俺は お前を妨げやしないから
だから行ってこい
行って 涙を止めてやれ
そう心の中で呟いたかと想うと、そこでぶつりと「硅」の意識は途絶えた。
身体が見る見る力を失い、どさりと地面に倒れた。
―― その時、硅の身体(うち)から薄ら蒼く光が溢れた ――
(・・・どうしよう・・・)
一度零れた涙は止め方を忘れたかのように、幾筋も頬に伝っては落ち、また溢れた。
それと同じように、想いもまた泉のようにどんどん溢れてくる。
ああ どうしよう
思い出に出来たと 想ってたのに
必死に蓋をして 心底に押し込めて 漸く思い出に出来たと想っていたのに
思い出になど まるでなっていないではないか
それどころか蓋をしたはずの記憶は 次から次へと鮮明に想い出されて
押し込めようとすればするだけ 想いは募って溢れて止まらない
(・・・駄目・・・駄目・・・駄目・・・)
言ってはいけない 想ってはいけない 期待してはいけない 諦めないといけない なのに
やっぱり 好きだから
とても とても 好きだから
分かっていても諦める事なんか 忘れる事なんか 出来ない
呼びたい 名を
聞きたい 声を
触れたい 肌を
逢いたい 君に
とても好きで 好きで
今も褪せない その名
「・・・っ・・・・・・犬・・夜叉・・っ・・・・・・・」
ああ どれ程 その名を待ち望んでいただろう
ああ どれ程 その名を伝えたかっただろう
もうずっと 呼ばれていなかった その名前
瞬間 繋がれていた楔がふつりと切れて
閉ざされていた扉が 開かれた ――――――
突然、ごうっと陣風が吹いた。
強く、されど暖かい ― 春嵐にも似た風。
しかしあまりにも強く突発的な風にかごめは思わずきゃっと小さく声を漏らして、咄嗟に目を瞑った。
周りの木々や建物も唐突の来客に悲鳴を上げ、ギシギシと軋む。
旋風は一瞬で走り去り、後には柔らかい風が残ってさわさわと木々や髪を揺らした。
風が去ったのを感じると、かごめは恐る恐る顔を上げた。
「えっ・・・」
が、瞳に飛び込んできた光景に、ぎょっと目を見開いた。
どういう訳か目の前の、全てのものが闇に覆われてる。
石畳も木々も周りのものは何もかもが闇に飲まれ、果てしなく暗夜の広がる世界。
ただ唯一、目の前の御神木だけが異様にくっきりと見えているのはこの暗闇のせいか。
いや、それだけではない。
花びらのような蛍のような、ふわふわとした光が雪のようにどこからともなく落ちてくる。
残った柔風に乗って周りを優しく照らし、舞い降り舞い上り、黒い地に落ちると吸い込まれるように消えてく。
「何・・・これ・・・」
唖然呆然とその光景に見入っていると、ふと背後に人の気配を感じ慌てて振り向いた。
途端、漆黒が映したものをかごめは思わず夢かと疑った、いや、夢だろうと信じ込もうとした。
「・・・・・う・・そ・・・・・・・・」
ぽつりと、呟かずにはいられない。
だってそこには
暗闇で 小さな光の舞う中
雪を細くしたみたいに さらさらとした長い銀髪
どんな宝石も叶わないほど 綺麗に透き通った瞳は金色
業火の如く 鮮やかな緋色の着物
可愛い犬耳に 大切な妖刀を帯びて
強靭な裸の足と 鋭い爪
子供っぽい、仏頂面の顔の下には、穏やかで逞しい少年の顔
乱暴で、怒りっぽくて、ヤキモチ焼き
いつも勝手に一人走りして、勘違いするのも常で
本当は呆れるほどお人よしで、寂しがり屋で、優しい
「・・・・・・・・・・・犬夜叉・・・・・・・・・・・・」
大好きな人が今 目の前に立っていたのだから
(夢・・・?それとも幻・・・?)
確かにいつもいつも姿を現すときは唐突だったけれども、今度は些か唐突過ぎた。
余りの事に涙も止まってしまったし、何だか酷く客観的に見える。
そんな彼女に彼は、犬夜叉は大きな歩幅でゆっくり近づいてきた。
ぴたりと少女の前の止まると、大きく温かいその右手で恐る恐るかごめの頬を包む。
親指の腹でその鋭い切っ先が当たらぬよう、優しく涙の痕を拭い
「・・・か・・ごめ・・・・・・」
らしくない少し掠れた、されど元来の低く通る声でぽつりと名を呼んだ。
どうやら、夢でも幻でもないようだ。
だって、夢はこんなに鮮明じゃなかった。
幻はこんなに暖かくなかった。
今、目の前にいるのは
大好きな人だ。
少女は、また溢れた涙をそのままに緋の胸に飛び込んだ ―
少年は、心の求めるままに華奢な身体を閉じ込めた ―
掠れた少女の声は、何度も少年の名を叫んで ―
狂ったような少年の声は、何度も少女の名を囁いて ―
もう何処にも行って欲しくなくて、その身体に縋りついた ―
針先ほどの隙間も開けたくなくて、その身体を抱き締めた ―
― どれほど 逢いたかっただろう ―
― どれほど 待っていただろう ―
― 大好きな人 愛しい人 ―
暫く二人、名前以外の言葉は何も交わさずただ抱き合っていた。
このまま何もかも愛しい人以外感じれなくなれるなら、いっそこのまま二人でどこか遠くへ逃げてしまおうか。
二人の時間が得られるのなら、全てを捨ててその流れに流されてしまおうか。
しかし彼も彼女も、知っている。
この時も、この場所も、全ては限られたもの。
二人で居られる時は、僅かしかない ――
「・・・かごめ・・・このままでいいから・・・聞いてくれ・・・」
廻る衝動を必死に抑えて、甘い時を裂いたのは彼の方。
抱き締めたまま泣きじゃくる彼女の耳元に漸く囁いた。
瞬間にびくりと、抱き締めた彼女の身体が震えたのが伝わる。
それは別れへの秒読みと分かっているから。
何故か心のどこかで確かに分かっていた、けれども認めたくない。
認めてしまえば、離れなければならない。
この温もりも声も全てをまた思い出として仕舞い込んで、あの拷問のような葛藤の日々と戦わなくてはならない。
再会できた以上、そんなのに耐れる自信はない。
我が侭をいう幼い子供のように、彼女は無意識にふるふると小さく首を振った。
彼の腕から零れた彼女の整えられた綺麗な漆黒が、共に揺れ動く。
そんな彼女を彼は更に力を込めて抱き締めた。
人と違う力を持った己がこれ以上力を込めれば彼女の体が壊れてしまう、片隅では分かっている。
でもやり場の無いやるせなさが彼の腕に力を与えていた。
「・・・まだ・・・お前に伝えてなかった事が・・・ある・・・」
無理やりにその身体と葛藤を押し込めて、彼は続けた――
伝えてはならない、と想っていた
伝えた結果、未来(さき)に残される彼女与えるのは叶えられない希望と拷問のような葛藤だと知ってるから
それに、半端な心のままで伝えたら彼女は壊れてしまう
もう一つの守るべきものも砕けてしまう
何より、あの時した決意を崩しそうで恐ろしかった
自らの決意が、かごめが傷つくのが怖くて伝えなかった
でも、伝えたい
遅すぎると、卑怯だと分かっていても、もう今しか伝えられないから
例えそれがあまりに残酷な言葉だとしても、その片鱗しか伝わらなくても
いつも、曝け出した感情をありのままに優しく包んでくれるこの少女に
少しでもいいから伝えたいんだ
償いと約束の為に捨てた、彼女の優しい気持ちと彼女への愛しい想い
願わぬと想っていた、魂の自由を再び手にしていいと許してくれたのは彼の魂
伝わらぬと想っていた、この気持ちを形に変えていいと言ってくれたのは彼の心
許してくれるというのなら、認めてくれるというのなら
たった一時の中でも、片鱗でも、お前に言いたい
「・・・好きだ・・・・かごめ・・・・。
ずっと・・・ずっと・・・・・・好きだった・・・」
本当はこんな言葉じゃ足りない、伝えられない。
けれど言わなければ、己は永遠に動けない、過去から進めない。
それにこれ以上押し留めていたら、募った想いが爆発してどうにかなってしまう。
だから言葉以上の溢れる想いを
狂うほど暴れながら踏み留めていた気持ちを
たったそれだけの幼い言葉一つひとつに託した ――
「・・・・ぅ・・・・っ・・・・」
その幼い言葉の一つひとつ
折れそうなほど抱き締められた彼女に、優しく暖かく染み込んで反響して、また涙が溢れる。
「・・・あの時に・・・言ってやれなくて・・・・本当に・・・すまない・・・・・」
「・・っ・・・や・・・ぁ・・・しゃっ・・・・・・っ・・・」
声が形を成さない、深く大きな緋色の肩に茜色が広がる。
「謝らっ・・・ないで・・・っ・・・謝らなくていいの・・・」
きつく、まだらに色の変わってしまった緋を握り締めて言った。
あの時、彼がどれ程までに悩んで悩んで、あの道を選んだか分かってる。
あの時、どんなことがあろうとも、彼の傍にいると誓ったのは己。
傷付くのも苦しむのも分かってたのに、勝手にくっついていた。
彼は、優しいから。
どうしようもなく、自分勝手で素直で優しいから。
この気持ちを言ってしまえば、折角の決意にまた亀裂を入れて悩ませてしまう。
なのに彼は、想いを告げてくれた、欲しい言葉と気持ちをくれた。
そんな事を言われてしまっては、もう押し込めていられないじゃない。
引っかかっていただけの枷を外すなど、ちょっと揺さぶられればすぐに外れてしまうんだから。
「・・っ・・あたしも・・・ぅっ・・・好き・・・っ・・・。
・・・大好きだよっ・・・犬夜叉ぁ・・・っ・・・」
何度も何度も、彼の名前と、やっぱり幼い言葉と、暖かい涙を、彼に向けた。
彼に負けないくらい、緋の背中に回した腕に力を込めて、握り締めた。
二人は何度も何度も、朽ちない想いと拙い言葉を、紡いでは伝え胸に刻んだ。
少し遅かったけど やっと想いを伝えた
叶わないと思っていたものが 伝わった
漸く手繰れた その想い
だが「時」は如何様な時も、やはり愛しく残酷であった。
ゆらりゆらりとたゆたっていた甘風は少しずつ強さを増して、愛しい恋人達を急かしている。
光が風に誘われて妖精のようにゆっくり取り巻き始める。
手繰られた糸が切られる時が迫る。
二人はどちらというでもなく顔を見合わせた。
別れを悟りながら、その手を離すことができない。
ここまで想っているのに、漸く気持ちが繋がったのに、立ち塞ぐ壁は受け入れない。
最後まで立ちはだかり続ける。
この世で唯一”別れ”と”死”という言葉のみが、永遠というものを忠実に守り続けている―
でも・・・
ぽろりと、かごめの頬を雫が零れる。
犬夜叉はそれを目にして下唇を噛み締めた。
一段と風は強さを増す。
静かに佇んでいた大木も葉を落とし、幹を軋ませてその強さを知らせた。
それを感じた次の瞬間。まさに一瞬で少年自身も驚くほどいきなり。
少年は少女の頭を掻き抱いて、唇で唇を塞いでいた――
そこには泣かないでくれと、忘れないと、言い聞かせるように。
そして、彼女から否と言わせないかのように、想いをこめてただただ彼女に口付けた。
少女も驚いて目を見開き、身動きも取れずにそれを受け入れる形になっていた。
何か言おうと想っていた言葉も、彼に呑まれて形にはならない。
バタバタと纏う衣や髪がはためいて、まるで体が中に浮くと錯覚しそうなほど風が強くなる。
勢いのせいで、互いの口内にじんわり鉄の味が広がった。
最初で最後の、何とも二人らしい不慣れで不器用なキス。
恋に遊ばれ翻弄されて想いの伝え方もままならない彼等の、これが精一杯の伝え方。
それは本当に僅かな時間だったけど。
口付けをしながら、受けながら、それでも心の中でずっと言い続けた。
―好きだよ
―好きだったよ
―ずっと ずっと 君だけが
―狂おしいほど 愛してたよ
残酷な風が一陣 吹き荒れた ―――
瞳を開くとそこに彼の姿は無かった。
見渡しても先ほどの暗闇はなく、見慣れた夜空の中に社務所や石灯籠が淡い月明かりにぼんやり照らされている。
さわさわと肌寒い夜風が残り火のように辺りの木々を揺らして凪いだ。
唯変わらないのは、目の前に静かに聳える御神木と、涙だけ。
ただ身体に残った痛さや暖かさ、そして口に残った痺れる感覚や鉄の味が
全てが現実であることを教えていた。
抱き締められていた痛いほどの感覚、響く声、暖かい体温、優しく業火のような気持ち。
彼はまた、忘れられない愛しいものを、残すだけ残していってしまった。
ふと、ここまでしたならどうして最初からしてくれなかったのか、と想った。
もっともっと抱き締めて声を聞かせて口付けて・・・
そこまで考えてやめた。
結局時は残酷にまた進み始めている。
一分一秒、確実に進んでいく。
そしていつか記憶は薄れ、形は崩れる。
感覚も、声も、体温も、きっといつしか褪せてしまう・・・
そう思うとまた涙が零れそうになった。
抱き締められていた分、寒くて仕方ない。
声を聞いていた分、辺りが静かで耳が痛い。
想いの数以上に、心は悲しい、切ない、愛しい。
もう分かっているのに、また逢いたくてたまらない。
こんなことなら逢わない方がよかったと思いながら、きっと逢わなければ壊れていた気がする。
矛盾が折り重なって消えない。
ぎゅっと自分を抱き締めたその時だった。
ぱさっ―――
「えっ!?」
突然、音と同時に肩に何かを掛けられたので慌てて振り向いた。
もしかしたら・・・という淡い期待を込めて。
だが・・・
「・・・大丈夫、ですか?」
一瞬、彼だと思った、否、彼だと信じたかった。
しかし後ろに立っていたのは、黒い短髪と黒い瞳で心配そうに顔を覗く全く違う人。
「・・・時峰・・・くん・・・」
「・・・薄着だと冷えますから・・・気休めですけど・・・」
言われて改めて自分の肩を見やると少しくたびれた男物の薄手の上着が両肩に引っかかっていた。
「っ・・・ごめんねっ・・・ありがとう・・・」
慌てて涙を拭う。
お礼を言いながら、何をまた期待しているだと叱咤した。
もう逢えたのだから、それで十分ではないか。
あれだけ触れ合ったのに、それ以上何を望むの。
なんで逢えないと分かっているのに・・・更に恋しくなってしまうの。
「・・・自分勝手だったと・・・怒るか?」
「えっ・・・!?」
俯いていたかごめに掛けられた突然の言葉。
驚いて顔をあげると打って変わって険しい顔で自分を見つめる硅がいた。
口調も敬語が消えて低くきつい、叱り付けるのような声だった。
「勝手に伝えるだけ伝えて、傍に居てくれないあいつを・・・憎むか?」
「そんなわけないっ!!」
硅が何が言いたいのか分からない。
でも自分が彼を憎むはずなどない。
確かに自分勝手だったけど・・・伝えてくれた気持ちも今あるこの想いも、確かだから。
完全な否定の瞳。
それを見た硅はふっと笑いを零し、くるりと背を向けると
「なら、それでいい」
そう言った。
「えっ・・・?」
「あいつの気持ちが伝わったのなら・・・あいつを憎んでないのなら・・・それでいい・・・」
相変わらず敬語はなかったけれど、その口調はとても優しかった。
でも「あいつ」とは・・・犬夜叉のこと?
「・・・どういうこと・・・?なんで知って・・・」
「・・・馬鹿でかい声の住人に聞いただけさ・・・」
「住人・・・?」
しかし硅はそれだけいうと、かごめの疑問符には一切答えず、さっさと先立って歩き出した。
気を失ってからの事は分からない。
ただ起きてみたら身体が楽になっていたのは分かった。
そして少しだけ、心に穴のような隙間が開いている感じがした。
それはきっと『あいつ』が伝えたい事を、かごめに伝えられた証。
『あいつ』はたったこれだけの、この時の為だけに己の中に居続けた。
ずっとずっとただ彼女だけを想いながら。
時折己と重なって姿を見せていたのは、恐らく彼女を探していたから。
外の世界を覗いては彼女がいない事に気がついて、やり場の無いその気持ちを再び心にしまい込んで・・・
何年も何年もこの狭苦しいつまらないところで、ただ一人を想い探し続けた。
幼い頃から見ていたもう一つの姿も
夢の中で会ったやつも
流れ込んできた名前も感情も
全てはお前が彼女を探している合間に見せた記憶
恋焦がれた相手に、そんなになっても想いを伝えられた元、体の一部。
今はもう居ない、獣。
「よかったな、お前」
この賛辞が間違っているのか合っているのかは分からない。
けれども今だけは、今この瞬間だけはこの言葉を言いたかった。
笑いながら向けた先は、今はもう居ない住人、否、獣。
一方かごめはそんな硅の背をぼんやりと見て立ち尽くしていた。
何故彼の存在を知っていたのか。
何故関係を知っているのか。
突然変わったその仕草や口調は何処か彼に似ていて、彼を思わせる事に酷く困惑した。
どういうことなの、という言葉しか浮かんでこない頭。
そんな己に唐突に投げかけられたのは
「早く戻りましょう。風邪を引きます」
「・・・・・・・・・ぷっ」
突然敬語に戻った彼に思わず笑いが零れて、今度は彼が疑問符を浮かべる番だった。
ああやっぱり、私が私のように、彼は彼でそれ以外の誰でもない
私が好きになったのも、ただ一人、犬夜叉だけ
二度と・・・逢えないんだ・・・
でも決して 忘れない
君がくれたもの全てを
君が伝えてくれたもの全てを
私は決して決して 忘れない
出会いと別れは諸刃の刀
人は幾重の諸刃を受けて生き続けなければならないイキモノ
愛しい人よ
その刃に負けないで
強く生きて――
まだほんの少しだけ 物語は続いてる
陰と陽が見たのは
愛しい人たちの尊い物語