出会えた事を 不幸なんて思わない


寧ろ出会わなければ それこそ不幸だったとさえ思う



ただ



願えるなら 叶えられるなら


ずっとずっと 一緒にいたかった











 ―――― 手繰り 過去の章 ――――










どこまでも、果てない地平にまで広がるは澄んだ黒の空。
吸い込まれそうな濡羽の絨毯で一際目を引くのは、砕かれた宝石の如く瞬く星の欠片達と、白銀に染まり照る明月。
夜風はぶるりと震え上がりそうなほどの冷たさを湛えて、それでも大地を愛でるように柔らかく吹き去る。
燦爛(さんらん)な彼等の目下には今は昼の青々しさを失い、闇に飲まれてしまった広く深き森が眠っていた。
そんな森を中心で往く年と聳え佇み続ける一本の巨木が静かに見守っていた。

その包むかのように広がる大樹の梢の下。
うねった太い根に少年と少女は何も語る事無く、寄り添い腰掛けていた。

頭を寄せて流れる銀と漆黒の髪を絡め、大きさの違う掌も同じように指を絡めて結ばせて。
しかしそれ以上何をするでも何処を見るでもない。
ただぼんやりと空(くう)を見つめ、互いの体温と微かな鼓動だけを感じているだけ。

そんな光景を明月は黙って見つめその身を染めている色と同じ淡い白銀の光を彼等に送っていた。




















―――――――――――――――――――――――――――――――











数百年と続いた憎き因果の根源は完全に絶たれた。
仲間と共に追い続けていた貴奴(きゃつ)は邪な願望を叶えられぬまま、自身の名の下へ誘われた。

深い深い、「奈落」という名の底へ。

それと共に、穿たれた呪いは貫いた主の後を追う様に消え去った。
芽生えた復讐心も完全とは言えねど漸く萎えて、一応区切りがついた。
しかし、ここまで辿りつく為の犠牲は途方も無く多過ぎたのも、また事実であった。

貴奴の些細な野望の為に一体どれほど者が傷付いたことだろう。
どれほど、澄んだ心は濁され、かき乱され、挙句尊き命の灯火を消されたか。

意志を無視され、強引に引き戻された彼の幼き命もまたその犠牲者だ。
無残に弄ばれた命は結局、その硝子の様な心も身体も救う事も叶わず散ってしまった。

でもこれで・・・この子はやっと救われたのかもしれない
本来ならば、帰らぬ命だったのだから――

姉は、動く事を忘れ風化され逝く弟の体を抱き締めながら、黒の瞳に涙を湛えて、それでも必死に切なく微笑んだ。


数々の因果や出会いと巡り会わせた妖しの宝玉は、再び彼の巫女の手の中へ舞い戻り清められた。
命を繋ぐ死人の魂を纏った彼女もまた死人。
宝玉を手にするとその凛とした声を波紋のように落として姿を消した。


<三日・・・その間に決めろ・・・>


それは紛う事無く、半妖の少年へ告げられた“遺された時間”
その時仲間の誰もが感じる、断ち切れぬ絆と、止める事の出来ない別れ。


勝利に声を上げる者など、誰一人と存在しなかった。





幾つも出来た体と心の傷は一先ず楓の村で癒される事になり、一日は完全に皆の養生に当てられた。
最大の敵との死闘と言える闘いで、身体も精神もボロボロになってしまったのだから無理もない。
その日は疲れと傷も手伝って大した会話も交わされず、各々想いに耽っていた。
先の見えぬ己や仲間の行末、決めねばならぬ幾重もの選択・・・複雑に想いを交差させ、夜は過ぎていった。

翌日になると、ある程度疲労は回復した。
思ったほど致命的な傷がなかったのは、百戦錬磨の彼等だからだろう。
もちろん心の傷の方は酷く癒えてはいないが、それでも黙って寝ているは居心地がよくない。

誰からと言うでもなく、いつの間にか思い出話に花が咲いていた。
旅の全てを語るなど到底不可能な事であるのは分かっている。
その時その時の記憶は驚くほどに鮮明で、笑いもあり、傷もあり、とても一朝一夕で語れるような旅ではなかったのだから。

それでも語る事を止めないのは一種の足掻きのようでもあり―
これが皆で語れる最後の日だと割り切ってしまったようでもあった。

夜も随分と深くなったころ。
突然彼の法師が「男同士で語る事もある」などと言って、半妖の少年を引きずり小屋を出て行ってしまった。
残された異国の少女と退治屋の娘は呆けながらも、先に眠った幼き子狐を起こさぬように、静かに女だけの語らいを始めた。

話は自然とそれぞれの想い人の話へ。
暫くは笑いも含んだ色事話だったが、ふっと法師は少年に、退治屋の娘は少女に同じ事を問うた。


本当にこれで良いのか―と。


二人が苦悩の末にした頑なな決意も、想いも・・・
とても自分達が口出し出来るような事ではないのは重々承知している。
それでも、聞かずにはいられなかった。

共に旅をした仲間として、苦楽を分け合った友として、彼らが大好きだから。

二人は幾度と、その絆の固さや意志の強さを教えてくれた。
闇に覆われかけた心に、希望という光を与えてくれた。
心を癒し、居場所を与えてくれたのは他でも無いこの二人。
ケンカが多くて、素直になれなくて、しかし何ものも敵わない想いを繋ぐ、愛しい人たち。

だから黙って、二人が離れるのを見ていられるはずがない。
こうして問うことで少しでも決意が変わってくれれば、もしかしたら、と淡い期待もあった。
しかし・・・


―もう・・・決めた事だから・・・―



二人の答えは揺るがなかった。













―――――――――――――――――――――――――――――――










夜は帳を一層下ろし、丑三つもとうに越えていた。

森は耳が痛くなるほどの静けさを波紋の様に広げる。
柔らかい風は霧のような薄い雲を散り散りにさせて、照り輝く月光を更に強くした。
その明るさは直視したら目が眩みそうなほどだ。

そんな空をかごめは少し恨めしそうに見上げた。


「・・・雨が降れば良かったのに・・・」


我知らず、小さく呟いた。
呟かれた本当に小さなその声に、犬夜叉の銀の獣耳がぴくりと動いた。

「・・・お前の場合、雨なんか降られたら風邪引いちまうだろうが・・・」

常人より利くその耳には、己の呟きがしっかり届いていたらしい。

少々ぶっきら棒に、されど静かに言われた気遣いの言葉に少女はうん、と小さく答えて彼の胸にそっと寄り添った。
それに合わせて、少年は繋いでいた手を少女の肩に回し、優しく引き寄せる。

浮かぶ名月にも勝る白銀と闇夜にも負けぬほどの漆黒の、長く美しい髪がさらりと静かに流れて絡んだ。



自分の体に気を使ってくれる少年の優しさは嬉しい。
彼がこうして不器用ながらに、乱暴ながらに、そして懸命に自分の身を案じてその身を犠牲にしてくれた事は数知れない。

それでも、雨が降ればよかったのにというこの思いは今だ反響して消えない。

そう思うのは雨が降れば泣いても分からなくなったはず、と思ったから。

きっと人が聞いたら、幼稚な考えだと笑ってしまうかもしれない。
でも降りしきる雨に身を投じてしまえば、涙は雨粒に紛れて分からなくなる。
自分の声など、雨音に遮られて聞こえなくなる。
そうすれば、少なくとも彼を泣いて送る事にはならない。
だってそれは雨だから・・・


大好きな人が黄泉路を逝くのを笑って見送る事なんて事、出来るはずがない。
だが、涙を流すことはしたくなかった。

涙は彼が一番苦手としているものだから。
そして彼が一番見たくないものであろうから。

だからせめて笑顔は作れなくとも涙は流したくなかった。
だから雨を望んだ。

それなのに融通(ゆうづう)の聞かぬこの空は、望んだ空とは正反対だった。
まるで現実を叩き付けるかのように、しっかと見させようとするかのように、月は己たちを照らしていた。



「・・・なあ・・・かごめ・・・」

不意に犬夜叉が、静かにかごめを呼ぶ。
その声にかごめは寄り添った胸を優しく押してゆっくりと顔を上げ、犬夜叉の顔を見つめた。

見上げた少年の顔は月光のせいか、いつもよりはっきり感情が表れている気がする。
黄金(こがね)に煌く瞳で空虚を見つめた顔は美しく、切なかった。

「・・・いつか・・・時がきたら・・・その時は・・・・・・」


その時は必ず・・・お前に会いに行く・・・――――


そう続けたが、それが「言葉」として出る事はなく、ただ少年の胸の内で静かに響いただけだった。

それはあまりに儚すぎる、自分勝手な想いと知っているから。
それが決して叶う事もなく、ただ空しく辛い希望だけを与えるだけの事を分かっていたから。


「いつか」なんて時がくるはずがない。
自分の魂は永遠に彼の巫女と寄り添い続けると誓ったのだから。
それが彼女の願いであり、自分もその願いを受け入れた。
犯した罪は償う、そう強く決めた、今更拒む気持ちも浮かんではこない。


ただふと、否、本当は今まで幾度となく、心の奥底で想った事があった。

それは、この少女との生(みち)―――

もし、もし万に一つで、彼の巫女がこの魂を放す、というなら――
例え時代(とき)は変わろうとも、この身体が変わろうとも、少女を想う気持ちと魂を携(たずさ)えて、
少女と共に生きたい、と思った。


安易な気持ちで巫女の願いを聞き入れた訳ではない。
軽い感情で少女との生を願ったわけではない。
どちらも本当に想ってるから、想ってくれているから。

例え、その身体は紛い物で、そこに宿るのは愛憎であるかもしれなくとも―
例え、その身体は異世界のもので、決して結ばれる事の無い時の軸があっても―

出来ることならそれぞれが望む事を叶えてやりたい。
でも、雁字搦(がんじがら)めになったこの糸を解く術が他に思いつかなかった。

どちらか一つのものを手にしたら、もう一つは取り残されてしまう。
両方を求めても得ることは決してできない。
分かっていながら、それでもどちらも追い求めてしまう。

何と身勝手な想いだろうか。

それでもこの少女なら、嘘と分かっていても頷いてくれそうな気がする――そんな甘い考えが過ぎった。

でも、その嘘は互いがあまりに辛すぎる、夢物語のような現(うつつ)。
故に少年はその言葉を飲み込んだ。

叶う事のない淡く儚い希望を残すより、未来へ進む為の過酷な現実(いま)を残したほうがいい。
彼女は未来(さき)を生かねばならないのだから。



言葉を切り俯いた犬夜叉を見て、かごめは再び緋色の胸に顔を埋めた。




もし犬夜叉が私の時代に生まれ変わっても、その人はもう『犬夜叉』じゃない。

どれ程、犬夜叉の生まれ変わりと言っても。
どれ程、姿形は似ていても。

その人はその人、犬夜叉でも他の誰でも無い
そして同じように、私の好きな犬夜叉は世界中探しても一人しかいない

私と桔梗のように



それは犬夜叉の言葉を悟ってしまったかごめの答え。
十五歳の優しい彼女が気付いてしまった、悲しい残酷な現実。


似ているかもしれない、でも、それだけ。

住んだ環境も、性格も、知識も、力も、何もかもすべてが違う。
魂が同じといわれても、その人は他の誰でもない。

そしてそれを一番理解しているのは自分自身。



(だから・・・犬夜叉とは・・・本当にこれで・・・・・・・・)


そんな言葉が脳裏を過ぎった。
が、折角今まで耐えていた感情が溢れ出そうで、かごめは必死に胸の奥に押し込んだ。

そんな感情を、優しい半妖もまた、悟ってしまう。

次の瞬間、少年は少女の身体を抱き寄せて、腕(かいな)に閉じ込めていた。
すまない、すまないと心の中で何度も言いながら、まるで自分をも押さえ込んでるように、強く少女を抱き締めていた。

自分勝手で、振り回して本当にすまない―

少年の温もりと想いが痛いくらいに伝わってきて、少女も涙を流さないよう必死に唇を噛み締める。
少年の緋色の肩に顔を埋めて彼の最後の餞別のような抱擁を受けていた。

こんなあたしを、こんなに抱き締めてくれてありがとう―


それは互いの胸の内だけで交わされた言の葉。




後悔するかもしれない
この先で大きな楔(くさび)になるかもしれない

けれど

決して憎みはしない
決して忘れはしない

いずれ 思い出となる日もくるかもしれないけれど


君と出会えたこと
君と話したこと
君と見たこと
君と触れたこと


君を好きになったこと


それだけは真実
それだけは忘れない










雲一つない、洗礼された夜空の下

静かに揺れる妖の森の中で出会った、猛々しく、優しく、強く脆い少年と少女が

「ごめん」と「ありがとう」という想いを込めて、痛いくらいの、優しく切ない抱擁を交わした ――









空が白む。
誰の手の力も借りず、空は藍から白藍へ、そして乳白へと次々に塗り替えられていく。

それと共に、ほんのり朝日と同じ曙色も籠った黄金(こがね)の瞳が静かに開かれる。
と同時に犬夜叉は肩に僅かな重みを感じた。
瞳を向けると肩のところに漆黒のツヤのある髪が目に入った。
自分よりも華奢でなだらかな肩が、僅かな寝息と共に上下に動くのが伝わってくる。

それに小さく笑みを零しながら、そっと、出来るだけ振動が伝わらないよう少女を離し、優しく大木の幹に預けた。
目を覚ましてしまわないかとハラハラしたが、彼女が瞼を開けることはなく、変わらず微かな寝息をたてて眠っていた。
ほっとしながら、ほんのり桜色に染まった頬をそっと右手を添える。

肌理の細かく柔らかい頬は長い間外気に晒されていたせいで冷たかったが、
少年が触れた事で僅かにいつもの暖かさが戻ってきた。
ここまでしても微動だにしない眠り姫の少女を、犬夜叉は切なげに見据えた。


安全な国で育った為か、勉強だなんだかんだで眠る時間が短い為か、
少女は一度深く寝入ってしまえば、多少の事では目覚めない。
いつもならもう少し警戒心を持ってくれやしないかとも思うが、今はこのまま眠っていて欲しいと心底思う。

今、この頬を指で撫でながら名前を呼んで、目を覚まさせたら―
彼女はあの濡れた漆黒の瞳に己を映して、己の名を呼ぶだろう。

そしたらきっと理性という枷が外れる。
劈くように何度も愛しい名を呼んで、華奢な細い体を折れるほど抱きしめて、息も出来ない程狂った口付けをして・・・


しかし、それでは全てが無駄になってしまう。
決意も、約束も、二人の想いも、己の身勝手で全てが最悪の事態に陥ってしまう。


触れたい、でも触れてはいけない。
最後まで自分勝手な自分。


ぎりっと、かごめに触れていない左手が拳を作り、鋭い切っ先が掌に食い込んで血を滴らせた。
噛み締めた為に牙が下唇に刺さって血を滲ませる。

そしてそっと手を離し、切なく見つめると

ゆっくりと背を向けて、歩み始めた。

巫女に向かい、死に向かい、約束に向かい、一歩、また一歩と歩を進めて、彼女から離れていく。
彼女から離れ、生から離れ、想いから離れ、一歩、また一歩と歩を進めて、巫女に向かっていく。



一歩進む、小さな木立を通り過ぎていく。

一歩進む ― 旅に出た頃を思い出す


強さだけを求めて、半端な血を呪って
気遣いや優しさなんて、忘れていたのに

あいつが何の躊躇もなく話しかけてくるから

半妖ということを忘れさせるくらいに、穏やかになる自分に気付いた



一歩進む、血は次第に止まり、傷口が小さくなる

一歩進む ― 仲間が出来た頃を思い出す


気に食わなかった、騒々しいと思った
裏切りを知っているから、仲間や信頼なんて信用出来なかった

強く、勇敢で、お節介なやつら

けれど共に居る事がいつの間にか当たり前で、大切で、誇りになった



一歩進む、確実にこの地を離れる

一歩進む ― 彼女が見せた多くの姿を思い出す


異国から来た妙な女

四魂の玉と共にこの世界に来た奇妙奇天烈なこの女を初めは巫女と勘違いした
似ていると思っていた、故に気になって、気に入らなかった

でもそれは似て非なるものだと気付かされたのはすぐだった

妖怪、野党相手にも、半妖の自分を前にしても慄きもせず、蔑みもせず
いつでもどんなときでも、よく怒り、よく笑い、よく泣いて

そんな風にころころと表情が変わるものだから
こちらまで自分の知らなかった自分を見ることになった

怒れば、怒鳴って言い返して
泣けば、おろおろさせられて
他の男といると、苛ついて
その身が危険に晒されれば、自然と身体は盾となり
傷付くと、痛いほどに辛さが伝わり
花のような包むような笑顔が、優しさが愛しくて

自然と綻んで安らぐ自分が居る

いつからだったのだろう
自分がこんなに穏やかで、同時に脆いと思い知らされたのは
彼女を失いたくないと、守りたいと、離れたくないと想うようになったのは
その笑顔に安堵して、求めるようになったのは
彼女の事がこんなにも、愛しくなったのは


その始まりは分からない

けれど 確かなのは――――





ふっと、足を止めて後ろを振り返った。

少女の姿は低い木々が幾重も覆っていて見えなかった。
ただ少女が居るであろうあの大樹だけは他の木々より抜きん出ているため、
薄すら青さを取り戻した豊富な緑を覗かせていた。

その大樹を見上げて、少女を想う。


彼女はもう、目覚めただろうか。
目覚めて己の居ないことを確認したら、彼女はどうするだろうか。
怒って自分の故郷(くに)に帰るだろうか。
泣く、だろうか。



「・・・・かごめ・・・・」



ざわりと、大きな風が吹く。


空と、大地と、少年の銀と緋と、言の葉と

頬をそっと伝った、どうしようもないほど美しい僅かな雫さえも、風は静かに自らに乗せていった。






始まりはわからない


けれど確かなのは


好きだった


狂おしいほど
全てを欲するほど

見せて、感じさせてくれた全てが

彼女が

かごめが


好きだった


愛してた






再び、少年は歩き始めた。

二度と振り返ることなく只歩き続け、やがてその足は大地や木々の梢を蹴り、巫女に向かって駆けていった。











空の藍と星は明けの白に追われて姿を消し始める。

間もなく夜明け、新たな日の始まり


暫くして少年は駆けていた足を止めた。

少女と同じ漆黒の長髪
何人(なんぴと)の穢れも許さないような純白の小袖
何もかも燃え尽くしてしまいそうな緋袴

命を繋ぐ死魂を纏い、眠るように瞳を閉じて座る巫女の名は、桔梗。

彼女がもたれ掛けている木は、桜の木。

かつて― 50年前、幹に腰を据えて、一人この草の原を通り行く巫女を眺めていた木。

桜の花びらが舞い散る中、凛としながらも何処か寂しそうな彼女の姿を、目で追っていて。
彼女もまた、行き様にちらりと、一人桜色の群から目立つ己を見上げていた記憶がある。


しかし今、木は既にすっかり花を落とし、青葉を湛えて静かに葉を揺らしていた。


「・・・桔梗・・・」

ぽつりと小さく、少年が巫女の名を呼ぶ。
声は何故か少し掠れてたように聞こえた。

そんな声に、全てを見通すような鋭い漆黒の瞳がゆっくり開かれて、射る様な眼光を向けてきた。

「・・・来たのか・・・犬夜叉・・・」
「ああ・・・」

例えるなら流水のような、澄んだ、静かで凛とした声が辺りに落とされた。
その声に少年が対称的な低い声で返事を返す。

巫女は返事を聞き暫く彼を見つめていたが、おもむろに立ち上がると少年の目の前まで進み出た。

そしてそっと、透き通るように白く細い指で少年の頬に触れた。
土と骨で出来た身体は血の暖かさを忘れたように冷たく、昔と変わらぬ桔梗の匂いに混じって墓土の匂いが悲しく香った。

「・・・よかったのか・・・?」
「!?」

不意に、桔梗が訪ねた。

それは恐らくかごめの事。
巫女自身は最後の確認のつもりで聞いたのだろう。

途端、少年の脳裏に少女の姿が過ぎった。
走馬灯のように、笑った少女の姿が、大樹に一人取り残してきた少女の姿が駆け巡った。

が、慌てて頭(かぶり)を振る。


「当たり前だっ!」

怒鳴ると、頬に触れていた桔梗の手を掴んで抱き寄せた。
その強さと勢いに桔梗も僅かに目を見開いた。

「よかったんだっ・・・!!・・・これで・・・いいんだっ・・・」

徐々に消え入ったそれは桔梗に言っているのか、己に言っているのか分からなかった。
ただ抱き締めた腕の力だけは痛いくらいに強い。

桔梗はただ黙っていたが、やおら瞳を閉じるとそっと少年の背に細い両の手を回し、

「わかった・・・」

静かに呟いた。

やがてゆっくりと、淡く白い光が二人を包んだ。





その日

二つの御魂が抜かず抜かれず まるで絡むように駆けて

朝日と空と空気に溶けていった

だがそれに気づいた者はいない

そして 死の間際

少年が誰を想い描いたか

巫女が何を想い決めたか

知る者もまたいない




燃える暁は大地を黄金に染め、空は乳白と浅黄と水色を従えて、目覚めへと誘い、闇を沈める。

その誘いに地上の陽の元で生きとし生けるものは導かれ、一日を迎える。
鳥は舞い、蟲は這い、人も動物も眼を開ける。
木々も陽の光に葉の一枚一枚を惜しげもなく広げ、今日を生きる糧を補う。


少女もまた、その光に誘われてゆっくり漆黒の瞳を開いた。
葉の間からは零れるような暖かい日が差し、暖められた風も柔らかく彼女を愛でる。

しかし彼女はそれに何も感じない、否、感じれない。

ただただ、大好きな彼がいったであろう森を見渡し、空を仰ぐ。
水色の、突き抜ける空は彼女の心と裏腹に煌煌と晴れ渡っていた。



本当は、彼が立ち去る前から起きていた。
彼がこの頬に触れてくれたことも、去っていく時も、
その手が微かに震えていた事も、知っていた。
ただあの時、目を開けられなかった、開けたくなかった。

あの時、彼が頬に触れてくれた時、もし瞳を開いて彼を見たら――
その宝石のような黄金の瞳で見つめて、別れを告げられていたかもしれない。


そしたらきっと耐えられなかった、
「いかないで」と叫んで、涙を流して、名を呼んで、その緋色の衣を掴んで・・・

しかしそれは決してしてはいけない。
優しい彼を惑わせて悩ませて、約束に、絆に亀裂をいれてしまう。
それだけはしたくなかった、絶対に。

自分が一人我慢すればそれで済む。


けれど――


つうっと、形の良い桜色のきれいな頬を、一つの雫が伝った。
それを合図のように、頬を幾つも幾つも雫が伝い、彼女の服や足元にしみを作る。




彼は、もういない
もう声も届かない、温もりも感じれない

何一つ伝えられず、伝わらない

一生、永久に・・・


分かっている、分かっているのに・・・

何故、この心は諦めてくれないのだろう
それどころか、水のように沸いて溢れて止まらない






ごめん・・・犬夜叉

泣かないって決めたけど、やっぱり無理みたい

ごめんね、少しだけ・・・少しだけ、泣かせて

あんたはもう、見てないだろうから

少しだけ、泣かせて











劈く声で、彼女は泣いた

蹲って、何度も何度も嗚咽し、肩を震わせ
どんなに手で拭っても、しゃくり上げても、声が掠れても

少女の悲痛な声は湧くばかりで
尽きる事を知らないように、溢れて溢れて

苛つくほど晴れ渡った青空に、吸い込まれていった


たった一人の、遥か遠い彼の為に零れるそれは

とても温かくて綺麗で悲しかった


―その涙は その想いは 高らかな空を越えて 遥かな時を越えて・・・―




















「・・・どうした?・・・」

「えっ・・・?」

「泣いておるのか・・・?」

「泣い・・・て・・・?・・・あっ・・・」

「・・・何かあったのか?」

「・・・いえ・・・なんでも・・・。目にゴミが・・・入っただけです・・・」

「・・・大丈夫か?」

「・・・はい・・・」





少年は老和尚にそう返事を返すと、再び空を仰いだ。


突き抜ける、美しい青空。
妨げるものは何も無い、快晴の空。

なのに何故か、見ているととても悲しい、涙が止まらない。
でもその空から、目が逸らせない、否、逸らせてはいけない気がした。




ざわり――




大きく風が吹きぬける。

首筋まで伸ばしたぼさぼさの黒髪と、纏った白衣と墨染めの袴が、涙とともに風に乗る。


涙は透き通り、空を映す瞳は黄金(こがね)に染まって

それはとても美しく、切ないものだった































大好きだよ
大好きだよ

あまり長くは居れなかったけれど
ちゃんとは伝えられなかったけれど

君と語れた事が
君と触れた事が
君と居れた事が
君との全てが

とても とても 好きだった
とても とても 倖せだった


でも


願えるなら
叶えられるなら

大好きな君と
ずっと ずっと 一緒に居たかった






















最後に手繰るは未来のお話
それは未知という先に繋がり 過去という後ろを消していく
でも信じてあげて

カタチは消えても
オモイは消えない
カコが褪せても
オモイデは鮮明

たとえそれが雨のように 冷たく辛くても
愛しいならば それを信じて
最後の物語の糸を引いてあげて