夏の芳ばしさを物語る空と、梅雨の湿(しと)りさを残す空気が、
綯(な)い交ぜになりながら、それでも決してお互いを殺さずに、ひっそり共存している。
まだ雲も多い中で、眩みそうな夕日が煌々と見えるのは、
そんな梅雨明け間近の夕方が魅せる一瞬の伎(わざ)だ。
あと幾日もすればじりじりと地面を焼く、うだるような暑さと吸い込まれそうな蒼天がやってくる。
かごめは、そんな中で足取り重く階段を上っていた。
その理由はこの纏わりつく湿気と気温の暑さとか、中学より遠くなった学校の行き来もあるだろうが
そんな事よりももっと精神的な、深い深いところがそろそろ限界に近いせいだろう。
硅と会って泣いたから、
― 否、きっと本当は”あの日”から
かごめも動けないでいた。
彼があんな事を言ったのは自分の為だという事が、痛いくらい分かっている。
あの言葉は、きっと家族が、そして想い募る”彼”が誰よりも言いたかった事だろう。
彼は第三者の立場だからこそ言える。
まだ幾十年と生きるであろう自分の為に
「幸せ」を掴ませる為に
それでも、この想いは・・・心は納得しない、空いた穴が埋まらない。
この想いを守りたいと、もういない”彼”との記憶や想いを必死に維持しようとしている。
なんと融通のきかない恋心だろう。
未練がましいと言ってしまえばそれで終わりだけど・・・それでも。
はあ、と何度目と知れぬため息を吐いたところで、長い階段を上りきった。
とぼとぼと、自身の伸びた影をぼんやり見ながら境内を歩き進める。
と、少し歩いたところで人の気配を感じた。
(・・・ママかな?それともじいちゃん?)
気だるそうに顔を上げてその人物を確認した。
途端、瞳が見開き、思わず息が詰まった。
「・・・どうも・・・」
硅が凭れていた御神木から背を離しこちらに近づいて、静かに言い放つと浅く頭を下げた。
相変わらずの黒を基調にしたTシャツに、ジーパン姿の硅。
かごめは思わず、答えもせず彼から目線を外した。
どうしても直視できない、負い目に加えて、今また重ねそうで怖い。
硅が言ったきり、お互いが次の言葉を探して沈黙を招く。
暫くして、口火は再び硅が切った。
「・・・この間は・・・本当に、す・・・、いや、悪・・・かった・・・」
え・・・と、かごめが顔をあげたが、今度は硅が顔を伏せてしまっていてやはり目は合わなかった。
「いきなりあんな、知ったかぶった事言って・・・傷つけて・・・あんたの気持ち、無視した・・・」
「・・・」
「本当に・・・ごめん・・・」
そう言って硅はさっきよりも深く頭を下げた。
彼はあえて敬語を必死に押し留めながら話そうとしていた。
敬語の自分は意識してなくても、どうしても相手に遠慮して自身を隠してしまう。
それでは意味が無いのだ、この人には自分の、獣の気持ちを知ってもらわねばいけない。
暫くかごめの視線を痛いほど感じていたけど、そっと肩を押されて頭を上げる事を促された。
「・・・私も・・・あの時どんな気持ちで言ってくれたか分かってたのに・・・
あんな酷い言い方して、ごめんなさい・・・」
まだ目は見ないものの、そう言ってかごめも頭を下げた。
「・・・謝る事なんてない。当然の事だ。」
俺だって同じ事を言われたら怒鳴ってた、と硅が続けるとやっとかごめと目があった。
頭を上げたかごめはぎこちなく、それでも目を見て笑ってくれた。
口を、それどころか話さえ聞いてもらえないと思っていた硅は内心ほっとした。
同時に、ぐっと拳に力を入れる。
高鳴る心臓の音は、前の時に比べたら馬鹿みたいに小さいけど、聞こえてしまうのでは思うほど五月蝿く感じた。
「今日は・・・あんたに、どうしても伝えなきゃならない事があって・・・来た・・・」
「えっ・・・・」
その一言に、どきりとかごめの心臓が高鳴った。
あの、不思議な光の舞う暗闇の中・・・
この身を折れるほど抱きしめながら
”彼”が想いを切り出したときも、こんな言い方だったから。
嫌な予感が、かごめの脳裏をちらついた。
そしてその予想は、おおよそ外れてはなかった。
硅は、そっと息を吐いた。
これから話すことは、きっと優しい彼女には、ある意味でとても残忍なことだと思う。
それでも言わねばならない、成さねばならない。
彼女の為に、獣の為に、自分の為に・・・
真っ直ぐ向けた瞳と心を、そっと吹いた湿気た風が後押しした。
「・・・・・・俺は・・・・もう・・・・・・ここには来ない・・・。
・・・・あんたに・・・・二度と・・・逢わない・・・」
「・・・・え・・・・・・・・」
酷くざわついたのは、見上げるほどの御神木か、この心か。
或いは両方か・・・。
目を見開いて、何を言っているのかと言いたげなかごめに、硅は尚も続けた。
「もしかしたら、うちのじいさんがまた助っ人に行けとかいうかもしれないけど・・・絶対拒否して、ここには来ない。
あんたには逢わない・・・ずっと・・・一生・・・」
これが、硅の本音。
きっと本当は、獣に逢わせた時点で言うべきだったのかもしれない。
硅の辿り着いた答え、伝えなければならなかった事。
― 社務所で二人で話したとき、こんな人は今時珍しいな、と思った。
初対面、しかも男で表情も会話もたどたどしくて乏しい、こんなヤツと
かごめは臆する事無くまるで昔の友人みたいに、呆けそうなほど簡単に打ち解けた。
それは、お互いの歳とか環境が似ていたからというのもあるだろうけど
何より、そうできるのはかごめの性格であり、天性の力であると感じた。
かごめは人を臆せず、素直にさせて和らげる空気を持っている。
どこかで出来た繋がりを余す事無く大切にする、心を尊び、無下にしない。
そして当たり前な感情を、優しさを、何の躊躇もなく人に向けられる。
それは”獣”の記憶も混じって、砂が水に染みこむみたいに深く感じた。
出来れば、この人との縁は大切にしたいと、珍しく思えた ―
そんな風に思えた人と出会えるなんて、きっとこれから先ほとんどないだろうに。
こんなに優しい人を、傷つけたいなんて思う人はいないだろうに。
自分は今、そんな人を身勝手なエゴで、残酷な言葉で突き放した。
「・・・・・・っ・・・・」
暫くして、言葉を解したかごめから声にならない声が零れる。
かごめは泣きはしなかった。
けれど泣きそうで、そんな顔を見れないよう俯き、涙を我慢しているせいで息が詰まった。
どうして硅がこんなことを言っているのか。
そんな事を聞いてしまうのは、あまりに無神経である。
聞かなくても、痛いくらい分かった。
彼は、あえて別れを選んでくれた。
”彼”の面影を持ち、きっかけを与えた硅がどんな形であれ傍にいれば、否応なしに思い出してしまうだろう。
きっと何かの拍子、度々に、”彼”を想って愛おしさに胸を焼き、泣いたり苦しんだり、切なくなってしまう。
それは自分を見ている、そしてそんな風に見させてしまっている硅自身だって、辛いに決まっている。
硅は言った。
”彼”は、自分の幸せを願ってると。
そして彼も、自分と”彼”に、幸せになってほしいと思っている、と。
彼は、自分勝手で、どうしようもなく脆くて弱い自分達の為に、
精一杯突き放して、先を向くように促してくれている。
遠い未来の、幸せの為に、折角築けた信頼や情誼(じょうぎ)を切り離してまで
前へ進めと、背中を押してくれている。
こんな、たった二人の為だけに。
痛いくらい、切ないくらい残酷な言葉だけど、
泣きたくなるほど優しい気持ちが、暖かくて嬉しくて。
本当ならば、自分から言い出さなければなかったであろう、こんなに痛い言葉を
こんなに優しい、暖かい彼に言わせてしまったことが、申し訳なくて、悔しくて。
そして”彼”に出会ったばかりのころ、”彼女”と似ている自分を、きっとこんな気持ちで見つめながら、
それでも何も言わず、傍で守っていてくれた事に今更気付いて、悲しくて痛くて。
沢山の感情がぐるぐると廻っていて、何か言いたくても、言葉に出来ない。
それでも何か言わなきゃと、必死に考えて出たものは
「・・・・・っ・・・・ぁっ・・・っ・あり・・・が・・・っ・・・と・・・ぅ・・・っ・・・・・・・・・・」
後悔や淋しさをこめた数滴の涙と、
きっと一生かけても言い切れないだろうけど、ありったけの想いをこめた5文字の言葉だった。
まだ懸命に涙を堪えていて、小刻みに震えているかごめ。
その綺麗な、今は夕日で薄っすら黄舟(おうに)の重なった濡羽の頭に、そっと温もりが被さった。
歳相応の大きな手が、慣れない手つきでゆっくりとかごめの頭を撫でる。
数回撫でられたところで、恐る恐る顔を上げると、
「俺こそ・・・ありがとな・・・」
少しぎこちなく困ったような、でもとても優しく笑っている硅の目とかち合った。
”彼”の、一瞬で視界から消えてしまいそうな、不器用な笑顔とはまた違った
波のように、若葉のように、柔らかくて心地のいい笑顔だった。
「・・・じゃあ、そろそろ行くな・・・・
おじいさんやママさん達に宜しく・・・」
暫くして、硅はかごめから手を離しつつ、
それからすみませんと伝えてほしい、と申し訳無さそうに言った。
おじいさんやママさんが次の大祓も是非来て欲しい、と言っていたからだ。
元より親しみ深い家族だったけど、とても硅を好いてくれていたから、
もう手伝えないと知ったら皆、事におじいさんはさぞ残念がるだろう。
その事を知っているかごめも申し訳なさそうに、でも静かに頷いた。
「それじゃあ・・・元気で・・・」
「うん・・・時峰くんも・・・」
さようならと、硅の小さい笑みにかごめもまだ涙を瞳に残しながら笑うと、
硅はゆっくりとかごめの横をすり抜けて階段の方へ向かって歩いていく。
かごめは追うように、その様をじっと見つめていた。
沈むごとに強さを増す、焦がすような西日を硅の全身が上手く隠して、元々黒い背中をさらに漆黒に染めた。
ただ輪郭のみが、綺麗な橙に象(かたど)られている。
「・・・時峰くんっ!・・・」
硅が階段を下りる直前で、かごめはその場でとっさに叫んだ。
当然ながら硅が全身で振り返る。
「・・・あ・・・の・・・・・」
呼んでおきながら、言葉に詰まった。
やはり謝るべきだと、もっともっと他に言わなければならない事があると思った。
だけど、いざ言おうとすると、その言葉はどれもこれも不適切で失礼に感じた。
彼は、何もかも承知で来てくれた、きっとこちらの心も全部ちゃんと分かっている。
そんな彼に取り繕いの言葉など、ましては謝るなど簡単に言ってはいけない気がする。
「あの・・・帰り、・・・気をつけて・・・ね・・・」
過ぎった事を全て飲み込んで出た言葉は、自分でも何とも間抜けだなと思えるようなものだった。
そんな不自然な言葉に硅はやはり少しきょとんとしたけど、すぐ小さく笑って答えた。
その時、とくっと、硅の心の奥が哭(な)った。
今こそ、成すべきとをする時だと、獣が微かに囁いた。
― ずっとずっと、言えなかった、言いたくなかった。
― だけど、本当に大切だから、愛しいから。
― 全てをかけて守ろう、この魂に、この名に、この想いにかけて。
― この未来(さき)の、途方も無い幸せを。
それはあの雨の中、獣が確かに伝えた願い。
こんな自分が言えるだろうか、このありたっけの願いを一掬いも零す事なく。
そのたった一言に込められるだろうか。
かごめに逢うまで散々悩んだのに、その一哭りで全てが吹き飛んだ。
心配なんてなかった。
だって、これは獣の言葉だから。
これは獣の想いの全てだから。
自分はただ、この口と声を貸してやるだけでいいのだ。
少女の濡れた漆黒の瞳の中では、自分の後ろから照る橙が揺らめく黒の海で一緒にたゆたっている。
強く、綺麗に。
また一生消えることのない情景が増えた瞬間。
そんな綺麗な宝石を真っ直ぐ見据えると、
とても和(な)いだ心で笑えて、言った。
「じゃあなっ」
放った言葉は、その意味とは裏腹にどうしようもなく明るくて優しかった。
言い放った瞬間、すぐ階段を下り始めたその硅の動き全てが、
かごめにはまどろっこしいくらい、ゆっくりゆっくりに見えた。
それはきっと、強い強い西日の所為だったのかもしれない。
長く立っていて、暑さに眩暈がした所為だったのかもしれない。
その顔や声が、驚くくらい似ていた所為だったのかもしれない。
だけど確かに、それは起きた。
硅に重なってうっすらと
大好きな 黄金の瞳の彼が やっぱり小さく不器用に 笑って
さらりと でも痛いくらいの感謝とか淋しさとか 沢山の気持ちを込めて言って
あの緋色の守り衣と 雪みたいに綺麗な銀の長い髪を翻し
硅が階段を下り始めたと同時に ふんわりと地を蹴って
高く澄み渡った 深緋(こきひ)と 黄金と 水縹の空に
驚くほど自然に 溶けていった
それは、懐かしくて笑ってしまうくらい”彼”らしい、背中。
それは、再会した時言われなければならなかった、言葉。
それは、”あの時”見ることの出来なかった、別れ。
一気に溢れ出した涙。
立っていられず、その場でぺたんと座り込んだ。
喉はみっともなく嗚咽としゃくり上げを繰り返す。
襟やスカートが、涙でどんどん濡れて色を濃くした。
声は聞き取れないほど切れ切れに、でもたった一人の名前を、尽く事無く何度も何度も零した。
彷彿させる”あの時”
だけど、あの時と違う事が一つ、あった。
それは彼女が泣き出したと同時に吹いた、風。
なぶるように強く吹いて、傍にある御神木を荒波にも似たとても激しい音を立てて揺らす。
その強さは芽吹いた若葉を数枚落とすほどで、葉の擦りあう音は全ての音を掻き消した。
そのくせ、目下の彼女に吹く風は、まるで包みながら涙を拭うように穏やかで。
風は少女が泣く限り、吹き続き、鳴り続ける。
そして、荒ぶる風に混じって、御神木に出来た白銀と緋の影が
誰にも気付かれる事なく、とても綺麗な雫を数滴、音も無く零した ――――
突然の激しい風が吹く中、階段を下り鳥居を潜り抜けた硅は、不意にまた胸が哭いた音を聞いた。
瞬間、あの時から心に感じ続けていた空虚が完全に埋まっていた。
ああ、と納得した途端、はらりぽたりと、涙が零れる。
嗚咽が零れる事はない、苦しいと感じることも無い。
ただ、雨が窓を伝うみたいに静かに静かに、なだらかな頬を伝って落ちた。
硅は涙をそのままに、綺麗な夏と雨季の混じった空を仰ぐ。
嬉しく、悲しく、愛しく、切なく。
この夏と梅雨を雑(ま)ぜた夕空のように、沢山の感情が折り重なって消えない。
物心付いた時からずっとずっと一緒に居続けたもの。
今在る尊い出会いをくれたもの、今在る生活をくれたもの。
ここに来てから、数え切れないほど多くのものを残して消えた、自分勝手な獣。
憎くて、恐れて、恨んで・・・それでもずっと一緒に居続けた、心の一部。
それが消えてしまった事が嬉しくて、淋しい。
ただ確実に言えるのは、以前空を見て泣いた時のそれより、ずっとずっと心地いい事。
哭いた音 ― 獣が囁いた、最初で最後の言葉。
― ありがとう ―
あんな事をいった自分へ、彼女が言ってくれたように
獣もこの言葉をこんな自分にくれた。
とても嬉しかった、「ありがとう」と言ってもらえた事。
こんな残忍な事を言った自分を怒らず、
最後の言葉を「ごめん」ではなく、「ありがとう」と言ってくれた事、本当に嬉しかった。
風が吹く、とても強く、激しく。
今はまだ、涙を乾かす事はできないけど。
願ってもいいだろうか
いつかの近い未来 皆が笑っていることを
想ってもいいだろうか
幸せを教えてくれた 大切な人の事を
忘れないでいいだろうか
幼くて残酷で自分勝手で でも精一杯生きて想い合った 彼らの事を
これから先 手繰られたその運命(いと)を
捨てながら 或いは そっと大切にしまいながら
また 見えない未来(さき)を手繰り寄せて 想いを巡らす
時に 絡んでしまうこともあるだろう
時に 解(ほつ)れそうになることもあるだろう
時に その手を止めようとすることもあるだろう
それでも それでも
捨ててしまった 『あの時』を拾い上げてみれば
しまっておいた 『あの時』を取り出して眺めれば
また運命(いと)を手繰り寄せる 力に変わる
いつか笑顔になると 信じられる
だから人は 例え恐れていても それを手繰る
この物語はこれでおしまい
だけどこの先 彼らはやっぱり手繰り続ける
恐れても 涙しても
諦めないで 止めないで 忘れないで
それぞれの ネガイに向かって
それぞれの シアワセに向かって
手繰り 続けて