運命(いと)と想いは 繋がり続ける
様々な因果や想いの絡んだ過去から
まだ見ぬ未知の巡り会わせの待つ未来に
果てることなく繋がり 手繰り寄せられている
―――― 手繰り 未来の章 前編 ――――
色鮮やかな紫陽花と、まだ冷たさを宿した雫が落ちる梅雨。
そんな時期特有のしとしとした冷たい雨が、漸く止んだ。
久しぶりに顔を覗かせた太陽は、時折鼠色の雲に遮られながらも
五月晴れの名も相応しく燦々と光を地上に送り、大地や空気を乾かした。
煌く快晴の空も綿飴雲の合間を縫うように水色を並々と注ぎこむ。
爽快たる風は、湿気た空気に新鮮な渇きを与えて心地よかった。
「なのになんで俺がお前の恋路を見届けなきゃならないんだ・・・」
そんな優雅な空が映る水溜りに目をやりつつ、青年は対称的な恨みと棘をたっぷり込めてそう言った。
ラフな格好だが、黒の上着にジーパンは黒い髪とよく似合う。
その刺々しい口調のまま黒髪と同じ黒い瞳で、ぎろりと隣の人物を睨む。
「おい、何度も言うが俺は面識があるだけでそこまで親しくもないからな。泣きついてくるなよ」
「面識があるだけだ〜?同じ屋根の下に住んでいた経緯のあるくせによく言うぜ」
「だから誤解招くような言い方するな!親しくねぇって言ってんだろ!」
つんとした物言いながら意味ありげに言ったのは同じ年頃であるが先の青年とは随分対称的な青年。
栗色の髪と飄々した顔、Gジャンに派手なTシャツとジーパンで手は色とりどりの花束を抱えていた。
黒髪の君がガラに似合わず怒鳴り返すが、派手な彼にはのれんに腕押し。
「親しくなくとも面識あるだけでどれだけ誇らしい友人であることか・・・漸く自慢の友人になってくれたな」
「こんなこと自慢されて喜ぶのはお前だけだ。
大体、誰かに付いてきてもらって告白なんて今時小坊でもやらねぇっての」
「神社までの道知らねえから案内してくれないとな。
それに女は同じ学校でもない上に面識ないやつといると警戒心丸出しでダメだ。
確実に落とすなら『友達の友達から』が基本なんだぜ」
さあ尊敬しなさい、と言わんばかりの派手な彼に黒髪の君は呆れるしかない。
「・・・毎度思うが、お前は生まれたての釈迦か?」
「何!?お前の目には俺はそんなに神々しく映ってたのかっ!?」
皮肉を漏らす彼に対して、まるっきり馬鹿丸出しな発言するその性格も正反対である。
そんな彼に褒め言葉じゃねえよ、と今日何度目かの溜息を吐きながらぼそりと返した。
さりとて、男の囁きは微塵も届いておらず
「でも日暮さんてどんな子だろうな〜。噂になるくらいだから相当可愛いんだろうな〜っ」
などと夢見る乙女のように目をキラキラと光らせた。
「・・・何にしろ無駄だと思うけどな・・・」
当然、この言葉も男の耳に届く事はなかった。
男 ―― 燈也(とうや)が硅の元を訪ねてきたのは、一週間ほど前の話である。
とは言っても小学校から馴染みの彼が嵐の如く来るのはいつもの事。
理由の大部分は女に振られたと愚痴うっ憤を晴らす為、と、寺に籠りっきりな硅に会う為であったりする。
だから、彼が硅に「人を紹介して欲しい」などという事は希有であり、驚きを隠せなかった。
しかもその人というのが、日暮かごめその人だったのだから正に開いた口が塞がらなかった。
当然のことながら、硅は誰にも彼女の事は話していない。
複雑な内情も絡んでいるし、好色の燈也には特に教える訳がなかった。
では何故燈也が彼女を知ってるのかというと、まず日暮かごめの容姿・名は近隣の高校ではそこそこ評判があるから。
もちろんかごめも硅もそんなことは微塵も知らないが。
そんなかごめが硅と日暮神社の大祓で一緒にいるところを燈也の友人が目撃。
瞬く間に万年発情軟派男の耳に入ってしまった。
で、その縁を利用してかごめにお近づきになろうと、あわよくば交際しようなどと目論んだわけである。
当然ながら硅は最初、一刀両断で断った。
燈也を会わせること自体もちろん嫌なのだが、燈也に会わせることで自分も接触してしまう事に気が引けたのだ。
しかしそこは天上天下唯我独尊、俺様一番な燈也と、拒否知らずなお人よしで口下手で内気な硅。
あれよあれよと言い負かされ、燈也の目の前で電話約束まで取り付けさせられる始末。
その気になればどうにでもなるのに結局電話をした辺り、自分でもどうなのかと痛いくらい分かっているが、
そんな提案を快く承諾してくれたかごめもまた、相当なお人よしというか何というか。
兎に角そんなこんなで、硅は強引に燈也につき合わされるハメになったのだ。
季節の誘(いざな)いによって葉はより一層緑青(ろくしょう)を深くし、惜しげもなく身を広げる。
紫陽花の青紫に混じってちらちらと夏色の花も混じり始めていた。
反対に季節に微塵も動じない見覚えある建物をゆっくり辿っていくが、あの郷愁に駆られる事はなかった。
気にかけつつも只管道を辿っていたら、いつの間にか日暮神社に着いていた。
見上げれば、青々と茂る木々のトンネルと突き抜ける石段。
紅葉よりも紅く、褪せた鳥居があの時と相変わらず堂々とそこに構えていた。
見慣れぬものに、おーっと感嘆の声を上げる燈也。
その横では、硅が複雑な表情(かお)でそれを見つめていた。
あの時からかごめとは会っていない、とは言ってもたかだか半月足らずだが。
ずっと気になっていたが別段会う用事もなかったし、わざわざ蒸し返すのもどうかと思った。
大体どんな顔で会えばいいのかわからなかった。
でもこの半月の間、一度だけこの階段と鳥居の前に立った事があった。
買い物がてら、正反対であるこの道を歩き、伸びる階段と佇む鳥居を止まって見上げるだけ。
別に境内に入る気もなくぼけっと立ち尽くし、されど鳴る事のない鼓動を気にかけながら
少女と獣を想った――
物心付いた時からこの内で愛しい人を探し続け、狂うほどの想いを告げて消えた獣―
消えてしまった獣を想い続け、告げられた想いを今も抱きながら生きている少女―
本当に彼らはこれでよかったのだろうか?
その想いを伝える前から分かっていた別れ。
二度と会う事は叶わないのに、互いの想いが分かったが故に恋しくて、愛しくて、逢いたくて・・・。
残された彼女はそんな甘くも苦しい想いを、二度と会えない愛しい人を胸に、生きなければならないというのに。
そんな想いをするくらいなら、いっそ逢わせない方がよかったのではないだろうか?
そんな彼女が獣を思い出にして他の誰かを好きになれる日など、果たして来るのだろうか?
何度もそう考えあぐねて、自分にはもう関係の無いと、考えてもしょうがないとそこを立ち去った。
だから今回の事に関してもかなり気が引けている。
会ってやってくれないかとは言ったが、あんな事のあったすぐ後であんまりすぎるから
微塵でも嫌と感じたら断っていいと、むしろ断ってくれとまでひっそり言った。
彼女が断れば、少なくとも女に優しい燈也が無理強いすることはないのを知っての提案だった。
しかし心配を他所にかごめは「会って欲しいと言ってくれているのに断るなんて悪いから」と承諾した。
幾度と念を押していいのかと聞いた電話越しのかごめには
優しさと無理がどことなく見え隠れしている気がした。
何十段もある石造りの階段を上りきり、境内に辿り着いた。
彼らの後を追う様に下から乾いた風が吹き、二人の髪や服をふわりと掻き揚げる。
たったそれだけのことでも、圧巻と神秘さを感じてならなかった。
「すっげぇ」
燈也は境内を見渡しながら感心の声を上げた。
家の場所もよく分かってないくせに、早く行こうぜと興奮気味の子供の様に先立って歩いていく。
そんな燈也に硅はまた溜息を吐きながら後に続き歩いていった。
境内を突き進むと、本堂の裏手には一戸二階建ての家が静かに佇んでいた。
燈也に強引に前に押し出された硅が、渋りながらインターホンを押す。
ピーンポーンと家の中に特有の軽い音が響き、追うように「はーい」と可愛らしい少女の声がした。
僅かな間の後、目の前の戸がガラガラと派手な音を立てて開かれた。
「はいっ・・・あっ、時峰くん」
「・・・どうも・・・お久しぶりです・・・」
出てきた少女・・・日暮かごめはクリーム色のワンピースに白いカーディガンを羽織った姿で、
いらっしゃい、と笑って出迎えてくれた。
これには正直、硅は面食らった。
表に出さないまでも、もっとこう沈んでいたり戸惑った感じがあると思っていた。
少なくともあいつに逢わせた張本人であろう自分に対しては。
しかしそんな様子は彼女からは微塵も感じさせない、むしろ己の方が動揺してしまってるくらいだ。
もう気持ちの整理が出来たのだろうか、と思ったがやはりどこか引っかかった。
燈也に脇を突かれてとりあえず謝罪と紹介をすると、さっさと済まさせてもらうべく二人から離れた。
己が見守らなくとも結果は火を見るより明らかなのだから。
「さてと・・・」
待っている間何をしていようかと、ふらふら境内に引き返してきた。
そこで最初に目に付いたのはあの巨木―御神木。
迫る夏に以前より葉の緑をより濃く色付けて、相変わらずの堂々たる存在感を放って静かに佇んでいた。
さぁぁと吹かれた風に葉は擦れあう音を奏で、何枚か枝から切り離した。
葉は存在感を象徴するかのような、注連縄の施された太い幹の沈む大地にひらひらと舞い落ちる。
たったこれだけのことなのに、この樹が織り成すとまるで神聖な儀式にさえ見えてきた。
やはり、圧巻させる神社に対してこの樹には心を穏やかにさせる力があるのかもしれない。
あれだけざわついていた心があっという間に治まり、安らいだ気持ちが生まれる。
近づき、太い幹に背を預けて凭(もた)れると、それも一入(ひとしお)だ。
広がる枝葉が己を包むような感覚、日の暖かさも手伝ってここで眠りたいとさえ思う。
そのまま暫し目を瞑り腕組をしてまどろんでいると、不意に人の気配を察した。
それは驚くほど唐突に、不自然にだ。
参拝客か、などと思い何気なく顔を上げた。
途端に硅の黒い眼が大きく開かれた。
滑らかな石畳の上に立っている、15、6歳ほどの少年。
ただし、普通の少年ではなかった。
身に纏うは、燃ゆるような紅蓮の緋衣。
風に靡く長髪は、シルクのようにさらさらとしていて。
髪から突き出ているのは三角の獣耳。
そしていつの頃からか見慣れた、あの金の目。
しかしその視線が己と合うことはなかった。
こちらには微塵の関心もないのか、じぃっと食い入るようにどこか彼方を見つめているせいで
硅には横顔しか見えていない。
そんな金瞳の射抜く方角にあるのは、日暮家。
何へ馳せながら見つめているのか・・・
射抜くような鋭い瞳のくせに、奥に漂うものには愁いという言葉しか思いつかなかった。
まるで幽霊か精霊のように突然目の前に現れた、獣。
そんな獣の姿に思わずゴクリと唾を呑む。
ところが、そんな緊張と驚きに苛まれていながらも、何故か硅の口元が僅かに上がった。
「・・・心配しなくても、あの人はお前を忘れないさ」
その言葉に、動じないと思っていた獣の銀耳がぴくりと動いた。
きっと、獣も彼女を忘れられなくて、心配で。
彼女が他の誰かに惹かれ、忘れられるのを恐れて現れたのではないかと思ったのだ。
聞き届けた獣がゆっくりと、金の眼と共にその顔を初めてこちらに向けた。
いくらか幼さが残っているが、鏡で幾度と見てきた金目の自分に似ている。
だが睨みつけてきた瞳は全くの別物だ。
蛇に睨まれた蛙の気分といえばいいだろうか。
殺気と眼力は正に、獣に相応しかった。
一睨み利かすと、獣は再び日暮家の方向に顔を向けた。
その瞬間までぎらついていた瞳が嘘のように、切なげに、痛そうに。
(・・・違う・・・か・・・)
忘れないでいてほしいんじゃなくて、忘れてほしいのか・・・―
掻き消されそうなほどの想いを悟れるのは、長年の付き合い故か、その縁故か。
獣の気持ちが水滴のように、ぽつり、ぽつりと流れてきた。
やはり悔いてしまっているのだ、逢ってしまったことを、想いを伝えた事を。
全てを承知の上で彼女に逢ったといっても、それは一方的なもの、勝手に過ぎない。
その勝手は結局、生在る時から痛いほど分かっていたはずの結果を生んでしまった。
伝えたことで少女は益々獣を忘れられない、想ってしまう。
この先彼女が辿るのは、操を立てて誰も愛さず想わず、一生獣だけを愛して生き続ける生(みち)だろう。
こうなる事は分かっていた、生在る時も、伝えたあの瞬間にも。
それでも自分勝手な心は彼女を想い、また彼女の幸せを望んでいた。
忘れるとまではいかなくても、自分のことを思い出にして。
誰かを愛し愛されて、子を生(な)し育てて・・・幸せな生を歩んで欲しい。
己が辛く悲しくとも、彼女が幸せならそれでいいと。
それでも一生涯、見守り続けようと思っていた。
だけど、少なくとも今の彼女の幸せに必要なのは、他の誰でもない獣。
こんなにも傍にいて想っているのに、伝えることさえできない、生を持たない獣自身。
そして今苦しんでいるのは、獣ではなく、幸せになってほしい彼女その人。
生が絶えても尚、彼女を苦しめて泣かせることしか出来ない
なのにこうして、漸く象られている姿で見守って想うことしか出来ない
そんな何もできない自分が、酷く嫌で悔しくて歯痒くて・・・
そして生在る時、彼女もこれに似た想いで己の傍に居たのかと想うと申し訳なくてやるせない・・・
流れ込んでくる、獣の気持ち。
純粋で幼くて、荒々しくて・・・けれど深く尊い彼女への想い。
しかしそんな想いを感じても、自分もただ感じて見ていることしかできない。
(やっぱり、逢わせなければよかったか・・・)
今更ながらそう思い、硅も切なく瞳を伏せる。
経緯や細かい事情までは分からないが、見ているこちらもつらい。
やはりあの時、無理やりにでも自分の中に押し留めておけばよかったのかもしれない。
そうすれば、彼女も彼も、そして己もこんな想いはしないで済んだのに。
諦めもつくと、思い出に出来たかもしれないのに・・・
そっと感慨が込み上げた硅、だったのだが。
「おーいっ!硅ーっ!!」
ずるり―
雰囲気をぶち壊すが如く、日暮家の方から駆けてきた人物の声。
深刻な空気があっという間に吹っ飛ばされてしまい、硅は思わず膝が砕けた。
「燈也・・・」
・・・事情が分かってないとはいえ、なんていうタイミングで帰ってくるんだ。
わが友人ながら、ここまでくると図ってるんではないかとさえ思えてしまう。
脱力する硅をよそに、燈也は気障っぽくふっと髪を掻き揚げた。
「うん、噂以上の高値の花だったぜ、日暮さんは。口説き術ナンバー1の俺も」
「・・・振られたんだろ」
ぐさっと、硅の一言で燈也のハートにナイフが刺さった音が聞こえた、ような気がした。
「だーもう言うな言うな!!どうせ振られたさっ!!悪いかっ!?」
「だから無駄だって言っただろうが・・・」
ぎゃあぎゃあ逆ギレして騒ぐ燈也の言葉に、呆れながらもどこかほっとした。
悪いやつではないが、少なくとも幸せを望むならこんなやつとは不可能だと断言できるから。
「うるせー!大体てめえ、知ってたんなら最初から言えよ!」
「知ってる?何を?」
立ち上がりつつ、無駄だというのに耳を貸さなかったくせに、と思いながら訪ねた。
「断られた時、付き合ってるやつがいるのかって聞いたら黙りこくられたんだぞ!?
言わずともあれは絶対好きなやつがいる雰囲気だった!!俺にはわかる!!」
ちゃんと聞いとけとか色々罵声を上げる燈也だが、生憎硅の耳には届いていなかった。
危惧していたことは、獣も彼女も蝕み続けている。
慌てて燈也の肩越しに獣を見た。
獣の瞳はこちらを見ていた。
燈也の言葉に、瞳を震わせて唇を噛み締めながら。
静かに目を伏せると、すっと空気に溶けて消えた。
激しい後悔の念を硅に伝えて―
「ああもういいさ!俺はまた新しい愛に生きる!!こんなことでへこたれるかぁ!!」
そんな硅を他所に燈也は訳の分からない事を捲し立てながら、あっという間に階段へ突っ走って行ってしまった。
「・・・なんなんだ、あいつは」
長年付き合ってても掴めない燈也の性格にまた溜息が出てしまう。
とはいえ、そんな所に救われているのも情けない事実だが。
土煙を上げて去った燈也を見送っていたら、不意に後ろからこつっと足音が響いた。
びくりと不本意にも大げさに肩が上がり、恐る恐る振り向いた。
案の定、そこにはかごめが困ったふうに笑いながら立っていた。
「すごい勢いで走っていっちゃったから、ちょっと心配で・・・」
「あー・・・」
さて何と答えたものかと、同時に面倒を残していきやがってと罵倒しながら苦笑するしかない。
恐らく断られた瞬間「いいんですよ」などと乾いた笑いをしながらかごめに花束を押し付け
背を向けた瞬間涙を散らしつつ脱兎の如く駆けた燈也と、
玄関口に残されたかごめが呆然と見送る形になったのが嫌でも想像できてしまった。
『悲しい負け犬男』の姿以外、言いつくろえない様である。
「あいつはいつもあんな調子ですから、本当に気にしないで下さい」
せめてこれ以上変な印象を与えぬように、と放たれたその言葉は果たしてフォローになったのやら。
そんな事を言った後、去ってしまったあいつの代わりに今日の礼と謝罪を述べた。
「気持ちは嬉しかったから」と言ってもらえた事は何よりの救いだ。
くすくすと笑いながら、ふと目の端に映った揺れる朱の夕日を二人揃って見た。
初夏に向けて日に日に赤みを増す、熱くて優しい色。
炯々と燃え揺らめくそれは、獣の衣を連想させた。
それを見て、先程の獣とのやり取りを思い出す。
いつまで、この二人は想いに縛られたまま、過ごすつもりなのだろうか。
叶わないのに、触れられないのに・・・
「・・・もう・・・いいんじゃないか・・・?」
「え、何が・・・?」
思わず漏らした言葉。
我知らず零れた言葉は幸か不幸かかごめに聞こえてしまったらしく、聞き返えされてしまった。
しまったと思ったときには既にかごめは聞く姿勢が取れている。
当人達の問題だから首は突っ込まないと決めていた。
だが、元を正せばこんな事態に発展したのは、自分が抑えこめられなかった結果だ。
それに、ずばっと第三者が言ってやった方がかえって事が動いてくれそうな気がする。
傷つけるとわかっていても、やはり前に進まねばいけない、彼女も、獣も、そして自分も。
意を決して、慎重に選びながら言葉を紡いだ。
「そんな今すぐにとか、燈也と付き合ってほしいとかは微塵も思いません。
けど・・・やっぱり・・・ずっと今のままじゃいけない・・・と思う・・・。
ゆっくり・・・忘れなくていいから・・・進まないと・・・」
これは他でもない獣の願いであり、自分もそう思っていた。
生を持っていた時も駆られていた、湧き水のように流れてきた獣の想い。
そして今、身が朽ち、そんな形(なり)で想いを告げても尚、縛られて捉われる。
彼女は、このまま肉体(からだ)が年老いても心は獣と会った時のまま動けなくなる。
この先幾つも差し出されるであろう幸せの手を全て振り払って、
小さな愛情を朽ちさせないことだけに生きてしまう。
もちろんそれでいいと思う人もいるだろう。
だけど、少なくとも自分はそんなのを良い生き方と認めたくは無い。
生粋の仏教信仰者ではないが、やはり生者には生者の、死者には死者の在るべき道があるはずなのだ。
二人には、それを歩んでもらいたい。できることなら、小さくでも笑って・・・
「あいつは、貴女の幸せを願ってる。
俺も、貴女とあいつには幸せになってほしいって思ってます。
だから・・・」
ちらりとかごめを見た。
背の差に髪と陰り、そして少し俯いている為、かごめの表情は読めない。
ただ口を一文字に結んだのが見える。
そして、結ばれた口から言葉が漏れた。
「・・・ってる・・・」
「えっ?」
「言われなくても分かってるわよっ!そんなことっ!!」
顔をあげて睨み上げたその瞳から、ぱっと冷たいものが散って微かに硅の頬を掠めた。
かごめは弾けたように叫び、まだ一言何か言おうとしていたが、喉の奥に押し込み、
くるりと背を向けると境内の奥へ一目散に駆けていってしまった。
かごめの涙と叫びに、胸の奥が痛む。
これでよかったんだと言い聞かせても慰めてみても、これっぽちも足しにはならなかった。
やがて夜の帳も下ろす頃、痺れを切らしたように雨雲からぱらぱらと雨が降り始め
いつしか豪雨にも似た粒が外のそこかしこを激しく打ち始めた。
新たにとりつけられた外灯の光は、眩むほどの明るさで雨がもたらす霞を照らす。
真っ暗な部屋の中、そのほのかに白い光と雨が作る影が唯一の明るさと動きを作る。
そんな部屋のベッドで、かごめは突っ伏していた。
枕に横顔を押し付け、ただ雨音と光をぼんやりと見入りながら呟く。
「分かってるわよ・・・そんなこと・・・」
うわ言のように、今日何度目かの言葉。
痛いくらい分かっている、このままでいいはずないことぐらい。
だけど、そんな簡単に割り切れるものなら、当の昔にそうしている。
壮絶で、沢山泣いて、でもそれを上回るくらい楽しくて、愛おしくて。
絶対に繋がらない部分があって、でも確かに繋がっている処もあった。
そういう、恋だった。
「誰よ・・・初恋は実らないなんて・・・っ・・・縁起でもない事言ったの・・・っ・・・」
またじわりと浮かんだ雫を枕に押し付けて、言葉に出来ない想いを零す。
初恋、だったの
決して楽しいばかりじゃない、甘酸っぱいなんて生ぬるいくらいのものだったけど
嬉しい事がある反面、敵わぬ絆に泣いた数も多かったけど
それでも、ずっと傍にいたいと心底想えた
一生を賭けても、きっと後悔しないような
一生の初恋、だったの
それを『思い出』になんて、したくない
今は、まだ・・・
雲は厚さを増したばかり。
滝のように、世界を阻むように、打ち付ける雨は世界を霞ませて。
雨はまだ、止む気配は無い――
どこもそうだと思うが、寺には紫陽花が多い。
理由を聞いたら医療の発達していない時代、梅雨時の激しい気温の変化で病人や病気による死者が多かったらしい。
紫陽花はその死者に手向ける花だったからだ、と和尚が言っていた。
その話を聞いた後、自室の前の庭に咲き乱れる紫陽花を見て
死体が埋まっているんじゃないか、と泣きつき宥(なだ)められたのはいつの頃だったろう・・・。
光沢のある淡緑の葉と赤紫やら青紫やらの幾重もの花びらが、
薄い夕闇の迫る中、しとしと降り注ぐ雨を受けようと惜しげなく広がっていた。
その葉の上をノロノロと這うカタツムリやナメクジも、見慣れてしまえば何とも思わない一つの景色。
そんな、いつもなら何とも思わない光景を硅はぼんやりと見入っていた。
手には使い古しの雑巾が握られているが、生憎その手は動かされていない。
正確に言えば体がその景色を向いているだけで、目や思考はそんなものを微塵も映してなかった。
あれから、日暮神社を訪れた日から幾日過ぎただろうか。
色々と考えあぐねるものの、答えらしいものに辿り着けない。
彼女を泣かせてまで現実を伝えて、彼に彼女の気持ちを伝えて・・・でもそれは結局ただの自己満足だ。
二人ともこのままでいいなんて思うほど、愚かでも迷妄でもない。
明達で、真っ直ぐに前を見据える強さを持つ、それが彼らだ。
だけどそんな二人でさえ、恋というものの前では簡単にへたりこんでしまう。
そこまでさせるほどの想いなんて、それこそ狂うほどの恋なんてしたこともない自分には想像し難いけれど。
それは強く羨ましく、されど恐ろしい。
恋の病なんてよく言ったものだ、結局理屈や理論なんて通用しない。
どんな言葉を言っても、きっと二人は全て頭では当の昔に理解しているんだ。
理解していてもどうしようもない感情、それが「好き」というもの。
どうあったって、第三者の自分が割り込めるものではない。
引き合わせたのは自分でも、どうするかを決めるのは二人なのだから。
それでも・・・いけないのだ、このままでは。
「・・・い・・・っ、これ硅っ!」
べしっ!!
「いっっっ・・・・!!」
突然の和尚の声と共に盛大な、そのくせジィンと染みるような痛さが右肩に走ったがどうにか大声を上げずにすんだ。
涙を浮かべながら振り返ると、年季の入った警策(きょうさく)と睨み上げる和尚の顔。
「・・・懸命に事を成してこそ見えるものがある、といつも言うておろうに」
「すみません・・・」
外面似菩薩、内心如夜叉、とはいかないがこういう和尚(ひと)ほど、何を言うか分からなくて怖い。
素直に謝りしゅん、と広い肩を落として頭(こうべ)を垂れた。
出口の見えない考えや二人の事ばかり考えていると、どうしても身体の動きが疎かになってしまう。
その為ここ数日、こんな風に和尚に窘められる様が幾度か見られた。
もちろん疎かにする気なんて微塵もないし、始めは一度頭をリセットして考え直そうともしている。
だけど、気がつけばその手を止めて思考は一人歩きしてしまう。
このままでいいのか悪いのか、ならば何がいいのか悪いのか・・・
いつまでも見つからなくて、なのにそろそろ流石の和尚も聞いてくるかもしれないから気ばかり焦る。
第一事情なんて話せないし、仮に話しても色恋事なんて一番ダメそうだ。
これは自分と彼らの問題、答えも自分と彼らの中に埋まっているなら
今はそれを表に出すことなく拾う作業に没頭するしかない。
また取り留めない考えに飲まれそうになる直前で、和尚に呼ばれた。
「・・・今日の勤めはお前が先導しなさい」
「えっ?」
「たまにはやらせんとな。ここを継ぐ気があるなら尚更、いつまでもわしの後を付いてきてはいかん。
精進し、己を磨きなさい」
相変わらずの優しい口調で、それでも眼光は鋭く光らせて和尚はそう告げるとゆっくり本堂へ歩き始めた。
正直、そんな気分じゃない。まともに読めるかも怪しい。
だけど和尚には逆らえないし、逆らいたくは無い。
重たい鉛を抱えた気持ちで、硅も和尚に続いた。
「一心頂礼十方法界常住三宝 ・・・」
一定音でありながら青年らしい筋の通った声が、蝋燭の火が揺れる夕方の本堂の中で静かに反響する。
それに木魚の軽い音と、和尚のしわがれた、されど威厳を感じさせる声が続いた。
「勤め」とはこのように毎日朝と夕、仏に向かって経文を唱える事だ。
先導として立つのは嫌だが、硅はこの勤めが好きだったりする。
いくら余計な考えをしていても物の何分で、意識は経と空気とを針で一刺ししたかのように一律になる。
気など逸らしたくても逸らせない、この緊張を含んだ一体感が、神聖で心地よく、ざわめく心が驚くほど静かになる。
それはこんなときでも見事に効果を発揮した。
あくまで一時的なものであるにしろ、この時ばかりは硅は経を読む以外に何も考えられない。
やはり経と自分は相性がいいんだな、などと少し思いながら、そんな考えもすぐに深く沈められた。
数十分後、硅と和尚は本堂の縁側に腰掛けていた。
二人の横には硅が片付けている間に和尚が入れたお茶が、静かに湯気を燻らしている。
「久々の先導にしては、なかなかじゃったな」
「そうですか?ありがとうございます」
「じゃが・・・わしに比べたらまだまだじゃ」
冗談なのか本気なのか、和尚の付け加えに精進します、と硅から久しく笑いが零れた。
和尚も声こそ零さないものの静かに微笑み、そうして空を仰いだ。つられた硅も空を見上げる。
細い細い、蜘蛛の糸のような雨がくすんだ空からぱらりぱらりと降り注いで、
そこかしこの水溜りに小さな波紋を生み出しては相殺していった。
この空を見続けていると、またあの答えの無い問いが沸々を浮かんでくる。
はっきりしない、丁度この空の様な、淀んだ答えの無いもの。
そんな空に硅がうっすら眉を潜めた。
と、その時、
「・・・人はな、結局は一つの事しか考えられんし、出来んのじゃよ」
ぽつりと、和尚が呟いた。
「は・・・?」
思考に呑まれそうだった硅も随分突拍子も無い、前後のない話に思わず素っ頓狂な声をあげる。
なのに和尚はそんな声も聞こえていないのか、過去を反芻するような遠い目で
まるで独り言のように空を見上げながら続けた。
「人は、複雑そうで実際は単純な生き物だと、わしは思う。
どんなにたくさんの事を考えていようと、その中では一番というのがやはり存在するものじゃ。
器用に複数のことを平等に出来て考えられる者など、この世には存在せん」
このわしでもな、と和尚は一瞬まるでいたずら小僧のような目つきを硅に送って、すぐにまた空を見た。
「考えが一つしかないのなら、出来る事も限られる。
どの道足掻こうとも、その考えを基にした言葉と行動と、感情しか結局は出ん。
お前が経を読めば、自然と正しい背筋で木魚を叩き、発声をし、真っ直ぐな心を向けるようにな」
「はあ・・・」
思わぬ和尚の褒め言葉にほんのり頬を染めらながら、
硅は和尚の言わんとしている事を何となく察した気がした。
「ごちゃごちゃと他者の図れん考えまでとりまとめても、何もできず終わる事の方が多いものじゃ。
自分の一番の考えを以て行動し、言葉にし、感情をぶつける方が何かを得る。
どこかを失う事もあるかもしれん、もしかしたら得るものは何も無いかもしれん。
が、それでもその一番大切なモノなくして人は動けん、それがあるから、動ける。
人はそれが自然に分かってるのからこそ、逆に一つの事しか考えられんのかもしれんな」
これは仏の教えではなく、あくまでわしの考えじゃが、と最後に付け足すと和尚は満足気に茶を啜った。
硅はそんな和尚の和み顔を泣くような、嬉しいような顔で見つめた。
和尚は、諭してくれたのだ。
悩んでいる自分に、強引に問いただすでもなく、ただ放っておくでもなく。
そっとそっと、脆い雪ウサギを壊さぬよう持ち上げるような感覚で、自分の心を掬い上げてくれたのだ。
きっと色々聞き出したいであろうに、そんなことを微塵も口には零さず、
自分の考えを全うしてもいいと、ただ静かに優しく、背中を押してくれた。
(やっぱ、この人には一生敵わねぇな・・・)
気付けば硅は背中が見えるほど深く頭を下げ、かと思えば湯飲みを蹴り飛ばさん勢いで立ち上がり、
自室に向かって駆け出していった。
そんな硅の姿を、和尚は目を細めてやはり穏やかな笑顔で見送った。
「人は、一つの事しか結局は考えられん・・・だから、後悔せぬよう必死になっておいで」
しわしわの手で硅の蹴りを免れた湯飲みを静かに引き寄せながら、
和尚は優しく囁いて、自身の茶をもう一度啜った。
本堂からは離れた場所に位置する自室前まで全力疾走して辿り着いた硅は、
荒んだ息を整え汗を拭うと、ゆっくり庭の方に向き直った。
庭にあまり広さを感じないのは、本堂の方よりも紫陽花が密集していて、隅には小柄ながら樹も何本かあるからだろう。
一斤染(いっこんぞめ)や水縹(みはなだ)の淡い色に染まる花達を静かに見つめていたら
ふと和尚の昔話なんかを思い出した。
紫陽花は死者への手向け、故にその根元には死体が埋まっている。
話を聞いて怖いから切って欲しいと泣いた幼い自分を、その時も和尚は諭した。
紫陽花は、逝ってしまった者達が確かに精一杯「生きた」と、「在た」という証なのだ、と。
それを恐れるのは仕方ないが、お前はあの人達の大切な証まで奪ってしまうのか、と。
奪われる痛みを、どことなく両親と離された痛みに重ねた自分は、必死に首を振った。
それをみた和尚は、やっぱり優しく笑って大きくなれば怖くなくなると、抱き上げて頭を撫でてくれた。
そして、これでお前は奪うのではなく、与えられる子になるな、とそっと褒めてくれた。
(与えたけど、結局奪う事になりかねないかも・・・)
昔の記憶を思い出し今を当てはめて、思わず苦笑した。
これから自分が発する事は全て、彼らの精一杯で尊い気持ちを、優しい心を奪う事になるだろう。
それでも、後戻りはしたくない。
例え自分勝手だと、自己満足だと罵られ殴られようと、
彼らを前に進めてやりたい、自分も前に進みたい。
瞼を閉じ深呼吸し、開いたその目は鋭いものに変わった。
「・・・いるんだろう?出てこいよ・・・」
雨音に混じって低く、確かな声が庭に放たれる。
もちろん、庭には誰もいない。
誰に放った言葉なのか・・・暫し当然のように雨の音がしていたが、
少し間を置いて、隅の樹の一本にふっと薄い陰が出来た。
周りの薄暗さに伴って、その半透明の着物は初めに見たときより少し暗めで、いじけて見えた。
あまり太くない樹に背を預け、赤く大きな両袖に腕をしまいこんだ姿はやはり横を向いている。
ただ顔と、あの息を飲む鋭い黄金(こがね)だけは、こちらを向いてくれていた。
その瞳に相変わらず冷や汗が一筋流れるのは、やはり「獣」の瞳を恐れる人の本能か。
それでも、拳を堅く握りなおして、
「話が・・・ある・・・」
必死にその瞳と向き合った。
雨はその時、雨粒を増して酷く降り注いだ。
物と雨の境目に、白く霞んだ境界線ができるほど。
しかし雨音の中で彼は確かに伝えた、本当の気持ち。
そして獣もまた縁(えにし)故に伝えられた、本当の願い。
自分達の成すべき事、成せれる事が、明確になる。
新たな日が始まる頃、雨は鳴りを潜めた。
後編